泣き笑いエッセイ コッチュだね!みことば編 第19回 さすがイエスさま!

朴栄子 著

 

「……イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。『歩きながら話り合っているその話は何のことですか。』」
(ルカ24・15~17)

五十の声を聞いたとたん、不眠症を皮切りにいろいろな不調が重なって、がっくり落ち込みました。うつ状態で誰にも会いたくなかったころ、教会は危機に陥り、牧師として自責の念にとらわれました。

祈りのうちに自らを省みると、外観ばかりを整えようとして、中身のない牧会と信仰だったことに気づかされました。

イエスさまは、もっとも大切な戒めは何かという律法学者の質問に、神さまと隣人を心から愛することだとお答えになりました。華々しい成果ではなく、目に見えない愛の関係こそが、根本だと言われるのです。

エマオの途上の物語を読むと、そのイエスさまの模範がじわじわっと心に沁みます。

主がよみがえられた日のこと。早朝、女性たちが空の墓を発見したのを聞いた後、二人の弟子がエマオに向かっているところから物語は始まります。
*    *    *
「一体全体、何が起こったのか、さっぱりわからない」
「これからどうすれば、いいんだろう」

その表情は暗く、とまどいと不安でいっぱい。足どりは力なく、しょんぼりとしていました。
そこにさりげなく、やって来たイエスさま。二人を驚かせないように、ゆっくりと近づいて、歩きながら声をかけます。

「その話は、何のことですか」

唐突な見知らぬ人の質問に、一人の弟子クレオパが驚いて答えます。

「えっ? エルサレムから来られたのに、今朝からもちきりの話題をご存じないなんて!」
即座に切り返すイエスさま。

「どんなことですか」
*    *    *
どんなことって、あんたのことや~ん! と思わず突っ込みを入れたくなる場面だけれど、この切り返し、さすがイエスさまです!

エマオまでは十一キロ。ゆっくり歩いて二時間半程度の距離です。その間、彼らとじっくり話されたのです。

人は喜びに満ちると、顔を上げて元気に歩きます。反対に悲しみに包まれたときには、下を向いてトボトボと歩くのです。イエスさまは彼らの歩調に合わせられ、混乱している彼らと同じ目線で話されたのです。

良い関係を持つためには、相手の立場で考えることです。教えてやろう、話を聞いてやろう、世話してやろう、という姿勢では、親しい関係にはなれません。

ほんの二年ほど前のわたしは、オモニのカメさんのような歩調に合わせることが、まったくできませんでした。イライラして、やりきれなくて、無駄な時間だと思ってしまったのです。

神さまの恵みによって、今は驚くほど気持ちにゆとりが与えられ、二人の時間を心から楽しんでいます。介護をしてあげているのではなく、世界一かわいいタミちゃん(←こう呼んでいます)に日々癒やされているのです。オモニが重荷じゃなくなったのです!

ほとんど発話のない日もありますが、横になるとなぜかペラペラ。辻褄は合いませんが、ノープロブレム! 声を聞くと吹っ飛んでいって、おしゃべりタイムです。

おいおい、何を言っているんだ、わたしだよ! そう言って叱責し、彼らの目を醒まさせることはイエスさまにとって、たやすいことだったでしょう。しかし、彼らの気持ちを聞くことを優先されたのです。

誰にでも、話したいことがあります。聞いてもらいたいことがあります。ことに辛さを抱えているときには、その思いを一度すべて吐き出さなければ、何を言われてもまったく耳に入ってこないのです。

イエスさまがパッと彼らの目を開かれず、同じ速度で歩きながら話を聞き、わかりやすく聖書を解き明かし、目の前でパンを裂くという方法を取られたのは、復活の証人となる彼らにも、同じようにしてほしかったからではないでしょうか。

血の通ったあたたかい親密な関係。そこから神の国が始まるのです。

 

在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。

*「コッチュ」は韓国語の「唐辛子」のこと。小さくてもピリリとしたいとの願いを込めて、「からし種」とかけています。