日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第20回 働くこと

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

人生の非常に大きな部分を占める「働くこと」について、クリスチャンはどう考えるべきでしょうか。聖書を見ると、人類の始まりの時から人間には「働くこと」が求められていたことがわかります。創世記1章27節で神様は人間を造られますが、直後の28節では、人間に以下のような命令を与えています。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

そこにある二つの「働き」とは、子孫を増やすことと、地上を管理することでした。その後、罪のため人はエデンの園から追放されましたが、「働くこと」は、人間の重要な役割として今も続いています。

ではクリスチャンが「働く目的」について考えてみましょう。テサロニケ人への手紙第二3章12節でパウロはこう言っています。「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」加えてテモテへの手紙第一5章8節でパウロは、「親族、特に自分の家族」のために働いて世話をすることの大切さも語っています。さらに、このようにも命じています。「困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい」(エペソ4・28)。

これら三つの聖書箇所は、パウロの時代の教会の一部にあった、怠惰や不正に対する戒めとして書かれているものですが、神様は人間が、自分自身と家族のために、そして必要のある他者のために「働くこと」を求めておられることがわかります。

「働く目的」はまだあります。先に紹介した創世記1章28節に記されている「地上を管理する働き」は、今も継続してクリスチャンに求められているものです。現代ふうに言い換えるなら地球環境(エコロジー)のための働きかもしれません。特に二十一世紀の現代においては、人間のエゴによって破壊された環境を修復することや、今ある良い環境を継続させることも、大切な「働く目的」のひとつと言えるでしょう。

しかしクリスチャンにとって最も大切な目的は、コリント人への手紙第一10章31節の、「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」という言葉に集約されるかもしれません。クリスチャンが「働く目的」、それは神様に喜ばれ、また周りの人たちに「神様は素晴らしいなあ」と思ってもらうためであるということになります。

ではどのような「働き方」が、神様の栄光を現すことにつながるでしょうか。現代社会において「働くこと」とは、「個人が労働を通して賃金を手にいれること」と考えられてしまうことが多いと思います。しかし聖書の語る「働き」にそのような制限はありません。

クリスチャン同士が協力・分担してさまざまな必要を担い合うことも、神様に喜ばれる「働き」の一例です。実際、新約聖書の時代の教会は、そのようにして成り立っていました。

たとえば、家族を養うために賃金を得る人と、家族を直接ケアする人、そして家族のために祈る人がチームとなって「働く」とき、皆が共に神様の目にかなう「働き方」をしているということになります。また、そこには年齢や身体機能の制限もありません。

たとえ何歳であっても、たとえどのようなハンディキャップがあっても、神様に喜ばれる「働き」をすることができるのです。もちろん、定期的にしっかり休むこと(レビ記8章)も「働くこと」の一部です。

では「働き」の種類(職種)に関してはどうでしょうか。プロテスタントのキリスト教には「働くこと」を神様からの「召し」(導き)として受け取る伝統があります。どのような「働き」であっても、神様に導かれてそれに従事することと、その「働き」を通して神様の栄光を現すことが重要であり、「働き」の種類に優劣はないという考え方です。

職業の選択は、特に若いクリスチャンにとってとても重大な課題です。自分が何をしたいか、自分は何に向いているかを考えることも大切ですが、聖書を開き、祈りつつ神様の導きを求めることと、その「働き」を通して、どう神様の栄光を現すことができるかについて考えることがより大切になります。またクリスチャンは職業によってではなく、神様との関係によってその真価が問われるということを覚えておくことも同様に大切ですね。

現代社会において、「働くこと」はより多様に、そしてより複雑になってきています。従来の肉体労働や頭脳労働に加え、近年は感情労働(神経をすり減らす仕事)という言葉も聞かれるようになってきました。教会全体が、互いの「働き」を知り、それらに理解を示し、その「働き」のために共に祈り合うことが求められています。