スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第六回 自分の人生から学ぶ③
坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。
北海道から福島へ(小学生時代)
自分の人生を振り返ってみて、「第二の七年間」はその後の「人生のテーマ」がいろいろな形で姿を現した時期であった。
私が小学校二年生の時、父は福島市に新しく設立した「国華酒造」という日本酒を製造する会社に転職した。それで、私たち一家は福島市に移住した。
福島の米はとても美味しく、北海道から福島に引っ越して来た最初の夜、家族で福島駅前の旅館で食べた「白米」の味は七十年近く経った今も忘れられない。福島は、とても自然が豊かな地であった。四方を山で囲まれた「盆地」であり、夏は蒸し暑く、冬は吾妻山からの「吾妻おろし」が吹き付けて来る非常に寒い地であった。果物は豊富にあり、リンゴ、梨、桃、イチジク。ぶどう、あけび、栗、柿、イチゴ、さくらんぼなど数えきれないほどの種類があった。きれいな川が流れていて、釣りを楽しむこともできた。
小学校のとき、私にとって忘れられない先生との出会いがあった。それは尾形常次という名の、大学を卒業したばかりの先生であった。当時の学校給食はコッペパンにリンゴジャム、時には玄米パン、そして「脱脂粉乳」というとても美味しいとはいえないミルクを飲んでいた。尾形先生は生徒が給食を食べている間、自分は食べないで『少年少女世界名作物語』を朗読してくれた。たとえば『レ・ミゼラブル』『三銃士』『巌窟王』『小公子』『小公女』などを朗読してくださり、時間が来ると続きは「明日」ということになる。「読み語り」を聞き続ける中で、私は「物語」の豊かさ、人生の不思議さを自然に学ぶことになった。また、ことばと文章を聞く中で、豊かな想像力を養われた。このことは、その後クリスチャンとなった時に、「聖書」の「物語性」を豊かに味わう土台となったと思う。
一番下の弟は、近くにあった「桜の聖母」修道院の付属幼稚園に入園した。そこで知り合ったIさんご一家とはよく行き来をしていた。私の家はクリスチャンではなかった。むしろ、父方の実家は禅宗の曹洞宗で、祖父の命日である八月十八日を記念して、毎月十八日には、父は一家そろって「修証義」というお経を唱えさせていた。私は今でもその一部を暗記している。
それにもかかわらず、クリスマスには、「きよしこの夜」を家族で歌い、私はサンタクロースがプレゼントを「靴下」に入れてくれることを信じていた。Iさんの家のクリスマスには、母と一番下の弟だけが招かれて、デコレーションケーキをごちそうになった。母は自分ではそれを食べずに、私と二番目の弟のために持ち帰ってくれていた。
私が小学校の四年生くらいの時、母は私を無理やり「修道院の日曜学校」に行かせようとした。私は、遊びたい盛りであったし、日曜学校に行って「良い子」になることを強制されるのも嫌だったので、それを断ろうとした。しかし、母もあきらめずに、私を行かせようとした。
最初私は、日曜学校に「行ったふり」をして、自分で勝手に聖書と関係ない話を作り上げ、家に帰って来てから母に「こんな話だった」と伝えた。母は、「それはすばらしい話だ。来週も行ってらっしゃい」というので、しかたなく「一年間だけ」という条件で日曜学校に行くことに同意した。その時にシスターから聞いた「イエス・キリストの十字架」の話は今も覚えている。クリスマスの劇は「良きサマリア人のたとえ」で、私は強盗に襲われた人の役を演じた。
その時には、聖書に興味もなく、意味もわからなかったけれども、主の大きなご計画の中で、聖書に接する機会が与えられたのだと思う。
私が小学校五年生の時の音楽の授業の時、S先生が音楽について質問し、私が指名されて黒板に答えを書くために前に進んでいたとき、生徒の一人が通路に足を出して、私を転ばせた。そのために前に出て行くのが遅くなったので、S先生は私が反抗的だと誤解した。そして私を生徒たちの前に立たせて、往復ビンタを食らわせた。私は悔しく、恥ずかしかったが、泣かずに耐えた。家に帰っても、このことは母には言わなかったが、様子がおかしいので母は上手に聞き出した。そして担任の尾形先生に連絡し、その次の日に私と母と尾形先生とS先生の四人の話し合いがなされた。事実を知ったS先生は頭を下げて私に謝った。
今の時代とは比べられないほど、先生の権威が強かった時代である。私は母は強いなと思った。でもその時から、音楽は大嫌いになった。