日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第23回 人間と感情

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

「早くしろ!」「今すぐ謝れ!」 最近、人が「怒り」を爆発させている現場に居合わせることが以前よりも増えた気がします。危険運転や、土下座の強要といった、人の「怒り」に端を発する衝撃的な出来事がニュースで取り上げられることも多くなりました。日本社会全体がより不安定になってきているからかもしれません。

このような「怒り」の感情は、人の心の中にある「怒り」のスイッチが押されることによって生じると言い換えることができるかもしれません。それは「喜び」「悲しみ」といった他の感情も同様です。猫が大好きな人は、テレビに猫の映像が映るだけで笑顔になります。その人の中に猫という「喜び」の感情のスイッチがあるからです。愛する人との死別体験がある人は、同じような境遇の人を見て「悲しみ」のスイッチが押され、共感の涙を流します。何によって感情のスイッチが押されるかには個人差があります。また「怒り」や「悲しみ」といった感情のスイッチは、その人の中にある恐怖心や不安感、喪失感等と密接に関係していると考えられています。

人間の感情は生まれた時から備わっています。赤ちゃんは、泣くのが仕事と言われるほどよく泣きます。お腹が空いた時や、おしめが濡れて気持ち悪い時に、泣いてそれを周囲にアピールし、自分の危機を知らせるのです。神様が赤ちゃんを守るために、そのように造ってくださっているのですね。赤ちゃんの感情は、愉快と不快といった比較的単純な構造をしています。年齢を重ねるにつれ、それはだんだん複雑になりますが、基本的な働きは同様です。「大きな病気にかかってしまった!」「愛するペットが死にそうだ!」「私は不当な扱いを受けている!」 このような危機的な場面で出てくる感情は、身に迫る危険や不安を自分自身に、そして周囲に知らせ、行動を促すのです。

多くのクリスチャンは「怒り」や「悲しみ」さらに「不安」といった感情に対して、それらを悪いものであると思い込み、隠したり、我慢したり、無視したりしようとします。しかし感情は、決して悪いものではありません。父なる神様も、またキリストも、聖書の中で感情を表しておられます。「悔やみ、心を痛められた」(創世6章6節)、「燃える怒りを収めて」(申命13章17節)、「悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26章38節)等に記されています。

人間の感情は、神様が私たちに与えてくださった贈り物であると言えるでしょう。感情があるので、私たちは赤ちゃんと同様に、身に迫る脅威から自分を適切に守ったり、また他者の感情に気がついて、その人をケアできるようになったりするからです。確かに聖書には、「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節)と書かれています。しかしそれは、愛する人が死んでもニコニコしていなさいということではありません。悲しくてもつらくても絶望することなく、私たちを愛し、その痛みを知っておられる神様に目を向けなさいということです。

エペソ人への手紙には、以下のような言葉も書かれています。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」(4章26節)。

ここに「怒ってはならない」とは記されてはいません。なぜでしょうか。それは人間が自分自身をしっかりと守り、またふさわしい行動をとることができるよう、神様が人間に「怒り」の感情を備えてくださったからです。

ですから、自分の「怒り」の感情のスイッチが押された時、そのきっかけを作った相手に対して自分の感情を爆発させてしまう前に、まずは自分で自分の感情を受け入れ、整理し、「怒り」という感情が現れた理由について考えてみることが大切です。たとえば、「自分には恐れや不安があるのだなあ。それが怒りという感情で表されてしまったなあ」というようにです。そしてその上で、冷静に言葉を選びつつ建設的な対処法を考える時、守るべきものをしっかり守りつつ、大切な関係性の破綻も防ぐことができます。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」とありますが、それは「怒り」の感情に流されて、人を傷つけ、罪を犯さないようにという戒めです。

感情の表し方は、その人の文化背景によっても異なりますし、さまざまな要因から感情をコントロールすることに困難さを持つ人もいます。パウロは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ローマ12章15節)と教えています。信仰者は、まずは自分の、そして他者の感情に敏感になり、すぐに裁いたり戒めたりするのではなく、それを理解し、そこに寄り添うことを通して、互いにケアする共同体となる。それが、本来の教会の姿であると言えるでしょう。