泣き笑いエッセイ コッチュだね! みことば編 第23回 ウルトラC
朴栄子 著
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)
一九九二年三月三十一日。この日、二十七歳のわたしは、韓国の三十八度線に近いところにある、祈祷院にいました。ここに一週間程度滞在し、断食祈祷をする予定でした。韓国の祈祷院ではたいてい、一日に三、四回の礼拝(聖会)があります。最初に参加した礼拝で、読まれたのがこのみことばでした。
子どものころから、文章を書くことが大好きでした。作文、日記、読書感想文、童話や詩を綴ること。書いている時間が幸せでした。
「編集者」という職業も知らないころから、書くことに携わりたいと思っていました。そんなわたしにオモニは「神さまのためにそれをしたらどう?」と言ってくれました。
神さまは恵み深い方です。子どもの拙い祈りをちゃんと聞いていてくださいました。大学卒業後、いのちのことば社に入社する道が開かれ、雑誌編集部に配属されたのです。
三度の飯より好きなこと! 右も左もわからなかったけれど、毎日が新鮮でした。いただいた原稿を校閲し、あちこちに取材へ。当時はバブル景気のころで、編集部は活気がありました。なかでもひとりの先輩は、ものすごいガッツがあり、企画も取材も写真もレイアウトも、何より文章が光っているカッコいい編集者。わたしの目標でした。締め切り前には残業も、時には徹夜もしましたが、充実した日々でした。
ところが三年が過ぎたあたりから、雲行きがあやしくなりました。人間関係での葛藤を抱えるようになり、そのストレスは体調に表れました。朝、起きられない。出社時間に間に合わず、昼過ぎにどうにか顔を出す始末。そのうち歩いて数分先の教会にも、行けなくなり、逃げるようにして、大阪の家に帰り休職しました。
いまならすぐに、心療内科を受診するでしょうが、三十年近く前のことです。自律神経失調症か適応障害か、メンタルの症状なのは明らかでしたが、知識もありません。家族はどうしていいかわからず、特にアボジはオロオロ。しばらくたって祈祷院に行きたいと言うと、喜んで連れて行ってくれました。
せっかくあこがれの仕事に就けたのに、編集どころかまともに出社すらできない。礼拝も守れない。情けなくて、自分は役立たずのボロ雑巾みたいだと、毎日泣いていました。ペンを持つことで献身していると自負していたのに、それができないことは苦痛でした。
神さまに聞いてみよう。仕事を辞めるべきか(A)、続けるべきか(B)、答えがほしくて、断食をすることにしたのです。結論が出るまで帰らない覚悟でした。
日本人の先生に心の悩みを打ち明け、祈ってもらったときに「神さまはあなたのことを、本当に愛しておられますよ」と言われました。不覚にも、ダダーッと涙が滝のように流れました。神さまはいい子ではないわたしを、責めておられる。何やっているんだと叱られると思い込んでいたのです。
死にたいとまで思ってしまった、こんなわたしのことを心配し、愛してくださるだなんて! 顔は涙と鼻水でグチャグチャでしたが、心はポカポカと温かくなりました。そして、スッと悟りました。AでもBでもなく、Cだったのです。
なんやわたし、神さまのこと全然知らんかったんや。そうわかったとき、自分にとっていま最も大切なのは、立派な編集者になることではない。この方をもっと知ることだ、知りたい! 切実にそう思ったのです。
「仕事を辞め、ペンを置きます。もしあなたが喜ばれないのなら、二度と書かなくてもかまいません」
十年後に献身しました。牧師になってみると、書いて書いて、書きまくる日々。二十九年たって、こうしてまた、書いていることも不思議です。
あの時、祈禱院で聞いたみことばは真実でした。そうです、神さまは御名を呼び叫ぶ者の声を、必ず聞いてくださるのです。人間は自分で用意した選択肢にこだわって、悶々と悩みます。しかし、天からの答えは枠外、ぶっ飛びのウルトラC!
人が小さな頭で描く偏狭な道ではなく、愛と恵みに富んだ創造主が備えておられる道は、想定外なのです。そしてそれが、最善なのです。
在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。
★オモニの動画→YouTube「タミちゃんねる」で検索 ★「愛の家」ainoie.org
*「コッチュ」は韓国語の「唐辛子」のこと。小さくてもピリリとしたいとの願いを込めて、「からし種」とかけています。