特集 聖書を原語で読む ヘブル語で読む旧約聖書 思い巡らしの旅へ、ようこそ
日本バプテスト連盟・いずみバプテスト教会牧師 城倉 啓
旧約聖書をヘブル語で読む魅力とは何でしょうか。
一つはヘブル語の持つ「素っ気なさ」に触れることだと思います。「え、そんなに短かったの」という驚きがしばしばあります。たとえば創世記三章九節。神から人への根源的な問いである「あなたはどこにいるのか」という有名な聖句は、たったの一単語「アイェカー」です。この余白の多さが、古池に蛙が飛び込んだ直後の静寂のような余韻を残します。
素っ気ないわりに、駄洒落が多いことも魅力の一つです。
イザヤ書五章七節の新改訳はこうです。「主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。/正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。」
ここで「公正(ミシュパート)」と「流血(ミシュパハ)」が、また、「正義(ツェダカー)」と「悲鳴(ツェアカー)」が語呂合わせになっています。ヘブル語で読まなければわからない掛言葉です。預言者は「オヤジギャグ」の使い手なのです。
掛言葉は駄洒落にとどまらない本質的な使信を含む場合もあります。「アダム」(人)という言葉は「アダマー」(土)という言葉と語源が同じです。このことは、聖書の人間観を明示しています(創世記三章一九節)。
人間は滅ぶべき弱い存在です。この人間観は、預言者エゼキエルに対して神が常に「人の子よ」(ベン・アダム)と呼びかけることと呼応しています(エゼキエル書二章一節他多数)。
滅ぶべき弱さを痛感しているエゼキエルに、神は優しく語りかけているのです。イエスはそのような儚い私たちに対する深い連帯感をもって、「わたしは」という意味で「人の子は」と語りました。
原典を直解する魅力は、「意味の広がり」に気づくことにもあります。ヘブル語から日本語への翻訳可能性の多さを知り、それを楽しむことができるということです。
たとえば、先ほどの「アダム」は「人」という意味だけではなく、個人名「アダム」という意味をも持ちます。だから翻訳者は、文脈上許容されるかぎり、任意で「人」とも「アダム」とも訳し分けることができます。
創世記三章二一節のヘブル語「アダム」を、「新改訳2017」、「新共同訳」は固有名詞「アダム」と訳していますが、「協会共同訳」、「口語訳」は普通名詞「人」と訳しています。
翻訳であるかぎり、一つの訳語を選ばなければならないという苦しい事情があります。もしヘブル語を知っていれば、この曖昧さ・両義性を放置したままに、原語の豊かな意味をくみ取ることができます。
創世記四章一節のエバの発言、「私は、主によって一人の男子を得た」(新改訳2017・聖書協会共同訳・新共同訳)にはいくつかの可能性があります。「男子」ではなく、「人を得た」(口語訳)とすることもできます。「男子」「人」と訳された単語「イーシュ」の原意が、「男性/夫/各人」だからです。
この点を広げると、エバは主と共に「夫」であるアダムを獲得し、支配したという意味にも解しえます。
さらに、「によって」という言葉は―「と共に」が直訳ですが―、同綴りの「を」という意味に採ることもできます。かなり強引ですが、「私は夫(によって)主を得た」という、命の主への挑戦という趣旨にも読めます。エバ(命の意)の真意はどこにあるのでしょうか。
正典は時代や場所を超えて、普遍的・不変的な真理を示しています。その一方で、正典はあらゆる時代や場所において、そこに生きている人々の生活のために解釈されることを欲しています。「あなたはどう読むのか」が信徒にいつも問われています。
原典の持つ曖昧さや両義的・多義的な性格は、私たちを「思い巡らし」という巡礼の旅に誘います。このみことばは、今・ここで・私にとって何を意味するのか。霊性を深める旅に、すべての人が招かれています。
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