ここがヘンだよ、キリスト教!? 第3回 信徒にもっと力を!
徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。
十数年前、海外のある都市にしばらく滞在していたときのことです。私は日系教会に通い、そこの小グループに顔を出し始めました。何気なく参加したのですが、思いがけず教会のなんたるかを体験的に学ぶことになりました。
小グループにはクリスチャンやそうではない人、日本人や現地の人が集まっていました。活動内容はユルく、できる人で食事を準備して食卓を囲み、その後バイブル・スタディがありました。ただしスタディと言ってもお勉強ではありません。希望者が順番にリーダーとなり、好きな聖書箇所を分かち合うというものです。
参加者の中には、私のように信仰歴の長い人もいれば、聖書について最近知ったばかりの人もいました。聖書博士のような人もいれば、マタイやマルコと言われてもパッと聖書を開けない人もいました。いなかったのは、牧師など先生と言われる人だけでした。「正解はこれ」と教えてくれる人は誰もいなかったのです。
シンプルな集まりでしたが、楽しい時間でした。難しい聖書箇所は皆でウンウンうなりながら考えました。普段の生活で聖書から教えられたこと、力づけられたことが分かち合われました。「その聖書解釈はちょっと……」と思う場面がなかったわけではありません。しかし時に深く心に響くものがあり、幾度となく信仰の励ましを受けました。そして不思議と、(失礼ながら)危なっかしく聖書を読んでいた人たちも、分かち合いを重ねる中で、誰が教えるともなくバランスの取れた読み方に変わっていきました。
「共育」という言葉があります。フラットな関係で共に教え・教えられ合うことは、先生から一方的に学ぶより学習効果が高いそうです。いまはわかりやすい答えをすぐ求める時代だと言われます。しかし、パッと聞いたことはパッと忘れるものです。逆に時間をかけて身につけたものは、たとえ回り道のように見えても本当の力になります。
あのバイブル・スタディの場にエライ先生がいたら、一体どうなっていたかと想像します。参加者たちはみな正しい答えを聞き出そうとするかもしれません。または、間違いを恐れて黙り込んだり、本心ではなく先生が喜びそうな正しい答えを口にするかもしれません。しかし果たして、そのようにして躾けられた正しい理解は、深い信仰の喜びをもたらすでしょうか。
もちろん、教会内に牧師や教師の役割を担う人々がいることは聖書にも記されています。それら先生方の多くは、神の召命を信じ、聖書や信仰の訓練と経験を積んでこられました。ふさわしい尊敬をもって接すべき方々です。しかし、牧師と信徒は身分の上下のようなものではなく、委ねられている役割が異なるにすぎません。先生方の助けをいただきつつも、神の前に一人ひとりが立っていくのです。
チャールズ・リングマは『風をとらえ、沖へ出よ』(深谷有基訳、二〇一七年、あめんどう)の中で問いかけます。私たちが当たり前と思っている教会組織が、キリストにある自由を損なってきたのではないか、と。リングマによると、新約聖書の時代、教会では誰もが自分の特性を生かして働き(ミニストリー)に携わることができました。奴隷と主人、ユダヤ人と異邦人、男性と女性などの隔たりがキリストによって崩されたからです。歴史が進み、自由なミニストリーは聖職制度に、家の教会の集まりは礼拝専用の教会堂に変わっていきました。しかし、それは聖書に照らせば決して当たり前ではありません。
教会には変革が必要だとリングマは訴えます。その変革とは、かつての教会がそうであったように、信徒が自分たちの霊的成長と教会のあり方にもっと大きな責任を担うようになることです。それは信徒だけでなく、牧師にも解放を与えます。多くの牧師は、信仰のことはすべて「自分の手で」扱うべきだと思い、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっているからです。
リングマが描く変革の展望は次のとおりです。「まず、意思決定のプロセスが参加型になります。……第二に、聖職者がたいてい担っている役割の多くを、信徒たちが担うよう訓練されます。……第三に、信徒がより多くのことを担うようになれば、聖職者たちはもっとリソースパーソンとして動くことができ、信徒訓練に集中できるようになります。……礼拝がより家族的な性質を帯びるようになります。……人々が神の御前で、自分たちの仕事、家族、奉仕、学び、葛藤、希望、信仰の生活を聖書に照らして分かち合うために集まることこそが、礼拝となります」(一三九頁)。
信徒にもっと力を!というリングマの提案。牧師として、信徒として、私たちはどう受け止めるでしょうか。