ここがヘンだよ、キリスト教!? 第4回 信仰的な正しさとは?
徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。
多くの人がコロナ禍でストレスを感じています。そのストレス要因の一つに、人それぞれの感覚や行動の違いがあります。「あの人はなぜマスクをしていないのだろう、なぜ出歩いているのだろう」と思う人もいれば、「これぐらい平気ではないか、気難しいことを言うべきではない」と思う人もいます。
教会内外で、ある人にとってOKでも別の人にとってはNG、という場面はたくさんあります。その際、「信仰的にこれが正しい」という言い方が出てくると大変です。信仰を持ち出されると、互いに引くに引けなくなります。しかし和解と一致を生み出すのがキリスト教信仰です。わだかまりを生み出すような「正しさ」は、内容以前に、どこか「正しくない」のです。信仰的な正しさとは何か、聖書に聴いてみましょう。
「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません」(Ⅰコリント8章13節)。
話の舞台はコリントの教会です。そこでは一つの問題が起こっていました。「肉を食べてよい」「いや、食べるべきでない」と論争していたのです。異教の町コリントには偶像の宮があり、その偶像のお供え物となっていたのが肉でした。問題は、捧げ終わった肉の多くが市場に戻されていたことです。つまり市中でお肉を買ったならば、それは偶像に捧げられていた肉かもしれません。
この問題をいったいどう考えればいいのか。一方では、そのような肉など汚れているから食べない、という人たちがいました。他方では、まったく気にせず食べる人たちもいました。食べる派・食べない派で教会が割れていました。
パウロ自身はどう考えていたでしょうか。パウロにとって偶像の神々などそもそも存在しません。まことの神はただ一人だからです。ですから、たとえ供え物として捧げられた肉であっても、ただの肉にすぎないわけです。食べても何ら問題ないことになります。しかし、「できること」と「すべきこと」は必ずしも同じではありません。
パウロは「食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、……私は今後、決して肉を食べません」と言います。パウロ個人としては、肉を食べることに何ら問題ありません。しかし、偶像に捧げた肉をパウロが堂々と食べるのを見て、心を痛める人がいるかもしれません。もしそのような人がいるならば、自分は決して肉を食べないだろうと言うのです。
日本では昔、キリスト者になるとき、家にあった神棚を川辺などで焼き捨てることがありました。それが良いことだったのか、というと疑問は残ります。しかし、当人にとっては切実な問題でした。神棚を焼き捨てることは、過去への決別として必要だったのです。たとえ村八分になろうとも、家族から縁を切られようとも、これからキリスト者として歩み出すのだ、という決意の表れでした。そこでもし、そのように歩み出した人が、平然と神棚を拝んでいる他のキリスト者を見たらどうでしょうか。自分の決意を踏みにじられた気持ちになり、信仰が揺らいでしまうかもしれません。
パウロ自身は偶像の肉を自由に食べることができました。しかし、自分の自由な振る舞いが他の人を傷つけてはならないと考えました。言うなれば、神から与えられている自由を用いて、自らの自由を捨てたのです。必要ならば他者のためにあえて不自由になることができる、それこそ真に自由な姿ではないでしょうか。
そのような自由の用い方は、神ご自身がまず実践されたことでした。神は全知全能、どんなことでもできる自由なお方です。しかしその神が、イエス様として家畜小屋で生まれ、自分で下の処理さえできないほど不自由になられました。さらには、十字架で無力に殺されるという究極の不自由を選び取ってくださったのです。
そのイエス様の姿は、私たちに、自分へのとらわれから解放され、他者のために自分の自由を用いることができるようにと促します。それは、ルターの『キリスト者の自由』冒頭の言葉を思い出させます。「キリスト者は、全てのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、全てのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」
マスクやワクチン、礼拝や聖餐式の持ち方など、私たちの考えは決して一様ではありません。そして多くの場合、簡単に正しい・正しくないと言えるものではありません。まず問いたいのは、私たちの発言や行動が、イエス様やパウロによって示された自由の用い方、つまり愛に適っているかどうか。そこに信仰的な正しさの判断基準があります。