スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第十三回 旅の中の出会いから学ぶ③ ノルウェーの森の中で
坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。
私はルーマニアからトルコへ、そしてウィーン、プラハ、さらにフランスのリヨンへと旅を続けた。そして、ノルウェーのオスロ空港に到着した。ノルウェーに行こうとしたのは、そこにある「牧会研修所」を見学し、できれば牧会研修セミナーに参加したいと願ったからである。オスロから電車で最寄駅まで行き、そこからかなりの時間バスに乗り、終点から目的地である「モードゥム・バード」という施設へ歩いていた。すると後ろから車が来て、「モードゥム・バードまで送ってあげる」というのである。感謝して乗せてもらった。
モードゥム・バードは、ノルウェーの森の中にあった。この施設の一番奥に、「牧会研修所」があった。残念ながら、私が滞在した期間にはセミナーは開かれていなかったが、そこの所長(日本に宣教師として来たことがある方)が、「研修所に泊まって、どの施設でも訪問し、それぞれのスタッフに何でも聞いてよい」と許可してくださったので、自由にさせてもらった。その研修所に滞在している時に、デンマークの国教会の牧師が休暇で来ていたので、さまざまな話をした。北欧では、牧師が一定期間休暇を取り、研修する制度があるということであった。
おそらく何万坪もあると思われる広大な森の中に、一九世紀風のとても素敵な家が数軒建てられていた。さまざまな町のメンタルケアの施設で治療が難しいケースを、モードゥム・バードで引き受けていた。問題行動を起こした人だけではなく、その家族も迎えて、三か月ほど施設内にいる専門家に家族で相談し、その間に専門家たちは治療方針を立て、そしてどの専門家が中心になって治療を行うかを決めるとのことであった。
そこにはメンタルケアを行う病院があり、また個人カウンセリングセンター、ファミリーカウンセリングセンターもあった。そしてきれいなチャペルもあって、そこのチャプレンにも話をお聞きすることができた。その牧師は、チャペルで人々の相談にのることで、神の臨在を来談者に経験していただき、不思議な神の働きによって解決が与えられる機会となると話してくださった。
牧会研修所では朝食は用意されていたが、それ以外の食事は病院の食堂まで行く必要があった。ある日、私が食事を注文していると、あるノルウェー人の男性が、「こちらに来て、一緒に食事をしないか」と誘ってくれた。「日本人がなぜ、この施設に来ているのか」と聞いてきた。話す中でその人は牧師の息子で、今教会から離れているということもわかった。食事が終わると「あなたは時間があるか」と聞かれたので「ある」と答えると、彼は近所のいろいろな所に案内すると申し出てくれた。
まず行ったのは、山のスキージャンプ台であった。上の方から見ると恐ろしいほど落差のあるジャンプ台だった。ここで最長不倒記録をもっているのは日本人だ、と説明してくれた。そこから自動車に乗って彼の家に向かった。途中、小さな教会があったので寄ってみることになった。その教会に入ると、一人の年配の女性が祈っていた。私たちが近寄ると、彼女はその教会を案内してくれた。数百年前に建てられたという礼拝堂の前面には、絵が掲げられていた。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をノルウェー人が模倣して描いたものだった。
女性は絵を指しながら、「ここにナイフを持った手があります。私は祈りながら、これは誰の手か考えていたのです。キリストを殺そうとしている手は、どの弟子の手なのだろうか。それとも、それは私自身の手なのか、神様の手なのだろうか。」私は今まで最後の晩餐の絵に、そのような「手」があると気づいていなかった。日本に帰って「最後の晩餐」の複製画を見ると確かにその「手」があった。「キリストを殺した手は私の手かもしれない」と考えていた、その女性のことばが私の心に残った。
自宅に招いてくれた男性は、紅茶とケーキをごちそうしてくれた。少し前に妻の誕生日を祝ったのだと語った。彼の妻は、あのメンタルケアの病院で働いているとのことであった。私は、さまざまな専門家が協力して、病める人、病める家族を治療し、相談にのれるような施設が日本にあったらどんなにいいだろうかと思った。しかも三か月も滞在し、家族ごとに相談を受けて、治療費はすべて国家の費用で賄うということであった。
真の人間性の回復は、からだと精神と霊とすべての面での「癒やし」が必要なのだと思った。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ一一・二八)