スピリチュアル・ジャーニー その後~真の人間性の回復へのプロセス~ 第十五回 旅の中の出会いから学ぶ⑤ 苦難の国ポーランドを尋ねて

坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

 

 

私は、ヘルシンキから飛行機でポーランドのワルシャワの空港に着いた。出迎えに来ているはずの人が見当たらない。宿泊をお願いしているポーランド人Bさんに電話して、行き方を教えてもらい、タクシーでその家に行くことができた。ポーランドに行った目的は、アウシュヴィッツ(ポーランド名は「オシフィエンチム」)を訪ねるためであった。

ポーランドには栄光と苦難の歴史がある。十四~十五世紀には王国は繫栄し、その時代とその後の王宮は破壊されたが、今は修復されて残っている。ポーランドは十八世紀に、当時のプロイセン、オーストリア、ロシアによって「ポーランド分割」され、さらに数次の分割の結果、一時は「ポーランド」という国自体が消滅した。ポーランドが独立国家となったのは、第一次世界大戦後である。ポーランドの主な宗教はローマ・カトリックであり、共産主義時代にも教会は信仰を守り続けた。

日曜日の朝、私はホームステイの家から歩いて十分位のカトリック教会の礼拝に出席した。その教会は一~二年前に始められたばかりの新しい教会で、日曜日には六回の礼拝がもたれていて、私が参加した午前九時からの礼拝も多くの人が集まっていた。司式をする神父とともに、小学生と思われる少年が講壇の上で手伝いをしていた。このようにして、少年時代から訓練しているのだと思って感心した。

ホームステイ先のBさんの家の長男は、ワルシャワの「ショパン音楽院」のピアノ科を卒業し、その時には高校の音楽の教師をしながらピアノも教えていた。その翌日、彼の友人が私をガイドしてくれた。

ワルシャワ中央駅の前には高い建物が建っていた。それを見ながら「これはソ連が建てた物だが、ソ連に支配されていた時代は全く意味のない空白な時代だった」と苦々しい口調で語っていた。その後、使えなくなった大砲などの武器がそのまま置かれている場所も見た。少し疲れたので、喫茶店に入って休憩した。そのとき、彼が「ヒットラーによってポーランドが占領される直前に、ポーランドに住んでいたユダヤ人音楽家たちが、コンサートでチャイコフスキーの交響曲第六番『悲愴』を演奏したんだ。その演奏のテープを聞いたことがあるが、とても沈鬱な演奏だった」と話してくれた。実際、ポーランドは多くのユダヤ人を受け入れた国だった。

その翌日、私は一人でワルシャワのいろいろな場所に行ってみた。その時に、ユダヤ人たちが「隠れ家」としていた「ゲットー」の跡も見た。また、その当時のユダヤ人たちを記念し、さまざまなものを展示した記念館にも入ってみた。そこには、前日に語られた「コンサート」のポスターもあったし、ユダヤ人たちが使っていた生活用品もあった。私はその次の日にワルシャワ中央駅から電車に乗って、オシフィエンチムまで行った。駅からバスに乗って、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」まで行った。

バスを降りて、歩いていくと、そこには当時の「強制収容所」のかなりの部分がそのままに残されていた。ユダヤ人たちを乗せて収容所に運んだ列車の線路、ユダヤ人たちがその中で殺されたガス室、彼らがその前に寝かされたと思われる粗末なベッド、トイレ、そしてその時の様子を写した写真。人々が使っていた眼鏡が山のように積まれていた。彼ら、彼女らは自分の名前で呼ばれず、番号で呼ばれていた。人間として認められていなかったのだ。その人々は、どのような思いでその時を過ごしたのだろうか。暗闇の中で、どこに希望を持つことができたのだろうか。

私はビクトール・フランクルの『夜と霧』をはじめとして、何冊かの本を読んでいたが、現実にその場に立つと、このことが現実に起こったこととは思えなかった。いや、私の心は思いたくなかった。でもこれは現実であり、自分の心の中にも、この暗闇がたしかに存在していることを知って、それから目を逸らしたいと無意識にも思ってしまう自分がいた。「ARBEIT MACHT FREI」ドイツ語で、「働けば自由になる」というナチスの偽りのプロパガンダの看板が道に掲げられているのを見て、心が苦しくなった。人間の恐ろしさを知った。

ワルシャワでの最後の夜、夕食をいただいた後、Bさんは戦争の時のことを話し始めた。約一週間経って、初めてこの話をしてくれた。彼女はユダヤ人ではなかったが、なぜか捕らえられ、多くの人々と列車に乗せられて、アウシュヴィッツに向かった。どこに連れて行かれるかわからなかったが、その目的地の前で、列車から飛び降り、そして奇跡的に見つからずに逃げることができたということである。後に彼女は、多くの人々が強制収容所の中で、殺されたことを知ったのだった。