特集 キリスト教と科学 ~矛盾? 対立?~ 教会として「科学」と向き合うために 『DNAに刻まれた神の言語』解説文抜粋から
聖契神学校 校長 関野祐二
遺伝学者、医師であり、長年米国国立衛生研究所(NIH)長官として労してきたフランシス・コリンズ氏の著作『DNAに刻まれた神の言語』(『ゲノムと聖書』〔二〇〇八年、NTT出版〕の新装改訂版)が、この春出版された。邦訳版の解説文から、日本の教会が今後、どのようにして「科学」と向き合っていくのかを考えてみたい。
* *
のっけから私事で恐縮だが、筆者が高校時代の天文部つながりで教会という場所に初めて足を踏み入れたのは、大学入学直後の一九七八年四月だった。翌年二月に信仰告白、六月に受洗と進むわけだが、この頃、日本の福音派教会では三つの論争/運動が展開されていた。一つは聖書論(無誤性)論争、二つ目は聖霊論(第二の波)論争、そして三つ目が創造科学運動である。右も左もわからぬ新参者には、教会という共同体が、ある意味かび臭い宗教団体ならぬエネルギッシュでダイナミックに躍動する集まりに見えたし、好奇心と若気の至りで各ムーブメントにかじりついて、関連本を手当たり次第に読んだ熱い思い出がある。
当時の空気感と肌触りを経験していることが、神学校で担当する「組織神学」クラスにも役立っているのだが、とりわけ創造科学運動は、幼い頃から夢中になってきた自然科学の領域ゆえ、当時から入れ込みようが深かったと思う。……(中略)
わが故郷、天にあらず
……筆者の受洗は大学二年で、目下の課題は「何のため会社へ行くのか」だった。キリスト者学生団体のスタッフ曰く「伝道のため」。伝道の大切さはわかるが、これでは仕事の意義を説明していない。背景に「十字架による罪の赦しと天国行きの福音」理解の強調があるのを知ったのは、後々のことである。それ自体は正解でも、滅び行くこの世からの脱出を救いの目的とするなら、地上における仕事を含めた諸活動の意義は見いだしにくい。
創世記で、神のかたちに創造された人類が最初に与えられた使命は地を支配することだった(創世一・二八)。聖書全巻は、罪によって壊れた世界を回復するため、神が主導して神のかたち/友である人類と契約を結び、神と人が共働しながらこの地を治め、新天新地完成に至る贖いの物語であり、今のこの世は神の国完成を先取りして被造物世界を管理運用し、ある種の連続性をもってその成果を新天新地へ持ち込む舞台に他ならない。だから、人類がその歴史の中で築き上げてきた文化、芸術、科学などの営みはすべて、神の物語にあって価値あるものであり、被造物管理と神の国進展のわざとして積極的に携わるべきなのだ。
そうなると、科学の営みはこの世界を治めるために被造物を理解する必須のわざと位置づけられる。科学それ自体は有神論でも無神論でもない中立のわざであり、キリスト者にあっては神の被造物世界を治め理解するため、人類に委託されたわざとの意味が付加される。大切なのは、携わる科学者がキリスト者であるなしにかかわらず、その成果を尊重すべき点であろう。真理の解明は、キリスト者のみの専権事項ではないのだ。さらに言えば、専門知識のないキリスト者が、聖書の権威を盾に自然科学としての進化論を全否定したり、仮説にすぎないと一蹴したり、科学者の真摯な取り組みに横やりを入れたりする態度は不遜な行為であり、科学を含めた一般学や文化芸術等の成果は、リスペクトしつつ神の一般恩寵として基本的に受け入れるべきなのである。
以上のような理解は、「福音の再発見運動」とでも言える神学潮流として、二〇一一年の東日本大震災を契機とした、日本の福音派における「包括的宣教、包括的福音」を推し進める力となり、二〇一四年の日本福音主義神学会全国研究会議や、二〇一六年の第六回日本伝道会議のテーマともなった。いずれの場においても、従来はタブーであった聖書と科学/進化論というイシューを筆者が取り上げ、ともかくも議論のテーブルに載せることができたこと自体、福音派神学の幅が広くなり、時代が変わったとも言えようか。
ちなみに本書の邦訳初版は二〇〇八年一〇月、筆者の入手は翌年一月、JEA(日本福音同盟)神学委員会で取り上げ、JEAニュースに筆者が書評を掲載したのは二〇一〇年八月である。はからずもこれが、前述の東日本大震災以降に生まれた福音派の新たな潮流、その原動力の一つとなったとも言えると思う。
『DNAに刻まれた神の言語
遺伝学者が神を信じる理由』
フランシス・コリンズ 著
四六判 定価2,200円(税込)
人類の存在に関する「深遠な問い」をどう考えるのか。科学と信仰、相容れないとされる両分野から、互いの視点を知的に統合する道を探求し、「見える世界」と「見えない世界」の調和を考える。2008年に刊行された『ゲノムと聖書』の新装改訂版。