ここがヘンだよ、キリスト教!? 第11回 イメージ豊かに祈る

徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。

編集者に「今度、何を書きましょうか?」とアドバイスを求め、いただいたテーマが「祈り」。もちろん扱うべき課題はいくつもあります。たとえば主の祈りの内容や、自由祈祷と(決まった祈祷文に従う)成文祈祷それぞれの利点など。いろいろ考えをめぐらせましたが、しかしどれもピンときません。祈りは何よりも実践の事柄です。神について知ることと神を知ることは違うように、祈りについて語るよりも祈りを語ることが求められます。

しかし率直に申し上げて、私は祈りに貧しい者です。かつて黙想セミナーに参加したとき、その静まりに耐えられず、階下のカフェに向かったことを思い出します。それでもクリスチャンの端くれ、祈らないわけではありません。いや、枕に顔をうずめて必死に祈る時、祈らざるを得ない時も多々あります。「神さま、どうしてですか?」「神さま、何とかしてください!」と訴えるような祈りです。

もちろん教科書的には、自分の願いを語るより先に、神への賛美や罪の告白が先に来るべき、ということになるでしょう。しかし、そのように礼儀正しく祈れないこともあります。そもそも綺麗に整った言葉を超えたところに、むしろ真実な祈りは存在するものです。そこで今回ご紹介したいのは、来住英俊神父が提唱する祈りの方法、イメージ(想像力)を豊かにする祈りです。

① あなたの周囲に、今苦しんでいる人がいますか。その中から、この人のために神に祈ってあげたいと思う人を一人だけ選んでください。

② その人の姿を思い浮かべてください。今どこで何をしているかを想像してみます。例えば、自分の部屋に座って物思いにふけっている様子をイメージします。

③ その人を神の柔らかい光が包む様子をイメージします。あるいは、イエスがそばに来て一緒に座ってくださる、何かを親切に語りかけてくださる様子をイメージします。

いかがでしょうか。これは「とりなしの祈り」ですが、自分自身について祈る場合にも応用できると思います。この祈りには言葉は必要ありません。神の愛が、自分自身や他の人におよぶ様子を、まるで愛の光が私たちを包み込むようなイメージで捉えます。私はこの祈り方に触れ、新たな世界が開かれたように感じました。神をより身近に感じ、その結果、祈りの生活が豊かにされていきました。

しかし、戸惑いを覚えた方がいても不思議ではありません。なぜなら、キリスト教は「言葉の宗教」と言われるように、言葉を大切にしてきたからです。私もはじめは腑に落ちませんでした。しかし徐々に気づかされたことは、神は人間に言葉だけを与えたのではない、ということです。私たちは頭だけではなく、五感や感情をともなった存在として生きています。私は疲れている時など、説教があまり頭に入らないことがあります。しかしそのような時でも、賛美歌を歌っていると、神の圧倒的な恵みに涙することがあります。また、大自然の中で神の臨在を実感するという人もいるでしょう。知性だけでなく想像力や感性も、神からの素晴らしい賜物です。

ただしイメージ豊かに祈るには、そのイメージを聖書から育むことが大切です。先月号では、主イエスが重い皮膚病者を「触って」癒やした記事について、その場面をイメージすることの大切さを確認しました。主イエスが人々と関わっている箇所を読むとき、字面をなぞるだけでなく、どんな場所でどんな時に、どんな様子であったかをイメージします。自分がその場にいたら、自分が話しかけられていたらどうだろう、などと想像を逞しくするのです。

厳密にいえば、私たちが祈る相手は父なる神です。しかし聖書は、主イエスを見ることは神を見ることだと告げます。私たちの父なる神は、冷たく抽象的な絶対者ではありません。私たちを愛するがあまり、居ても立ってもおられず、主イエスとしてこの世界に駆けつけて来られたお方です。そして、家畜小屋での誕生から十字架の死、そして復活に至るその歩みを通し、神がどういう方なのか、神の愛とはどのようなものなのか、身をもってお示しになりました。

私たちは一般に、自分が大切にする人、愛する人について、できるだけ詳しく知りたいと願うものです。得られる手がかりを総動員して、その相手を思い浮かべようとします。またその過程で、相手への思いも深まっていきます。同じように、聖書に描かれた主イエスの歩みを通し、私たちが愛し、祈るべきお方を親しく知っていきます。神の手触りを確かにしていく営み、それがイメージによる祈りです。