時代を見る眼 コロナ禍の賛美〔2〕 神を思い巡らす

シンガーソングライター
岩渕まこと

祈りの冒頭で「主よ、あなたは全能の主、あなたに不可能はありません、私はあなたを信じます」と祈っている自分を、信じていないんだなあ……、信仰が弱いんだなあ……、と思うことがあります。

ある時、心をゆるしている友人にそのことを話したら、「私は祈る時に、主がどんなお方かを味わいながら思い巡らすことがあるよ」と返してくれました。さらに「そうするとだんだん主のすばらしさを讃える言葉が内側から湧き上がってくる。だから、時々ゆっくりと時間をかけて主を思い巡らすんだ」と。

この言葉を聞きながら、あらためて主を賛美することの原点を教えられたように感じました。
コロナ禍の制約だらけの生活に耐えられなくなることがあります。そんな中でも、ライブやコンサートが計画されて、歌いに出かける機会もありますが、人と出会うかぎりは、感染する、させる可能性がゼロではありません。

私は、罹患すれば重症化する可能性があるグループに入っていますので、余計に神経質になるのかもしれません。しかし、いざ出かけてしまえば、以前と変わらない感覚で歌うことができます。そのすべてが良かったかどうかは、数日経って、感染者が出ていないことを確認するまではわかりません。

コップの水を「これしかない」と考えるか、「こんなにある」と考えるかの違いを聞いたことがあります。コロナ禍、特に最初のころは、できないことや、なくなってしまったことを数えることが多かったように思います。エジプトではご馳走を食べていたのに……状態な感じでしょうか。

口では主は最善にしてくださると言いながら、祈りは「ああしてほしい、こうしてほしい」になってしまう。願うことはいけないことではありませんが、気がつけば足らないものを数え上げる名人になっていたのかもしれません。祈る時には性急に言葉を並べ立てて、祈りという出来事をすませてゆく自分……。

友人の祈りからは、そんなに慌てないで、急がないで、自分で決めないで、という促しが聴こえてくるようです。ふと、ダニエル書の「たとえそうでなくても」(3:18)が思い浮かんできました。前回は、コロナ禍でも賛美の種が暮らしの中にあると書きました。その種が成長するように、種においしい水をあげなければいけません。それは、神を思い巡らす臨在の雲から降ってくるのかもしれません。