特集「祈り」とは何か 静まりの中での祈り

日常生活を送るうえで、私たちはどのような時に「祈り」を用いているでしょうか。「豊かな」祈りの生活とは、どのようなものなのか、祈りに大切なこととは何か、あらためて考えてみたいと思います。また、祈りの理解を深めるための、新刊もご紹介します。

 

日本ホーリネス教団・東京聖書学院教会 牧師  斉藤善樹

私は祈りが苦手でした。「みことばは霊の糧、祈りは霊の呼吸」などと教えられ、「毎日祈りの時間を確保しよう」と決心するのですが、長続きしません。信仰の先輩の祈る姿に感動しながらも、自分にはとてもできないというのが感想でした。

それでも牧師になるように導かれ、神学校で学びました。そこでも祈ることが強調され、毎朝、早天祈祷会があり、朝食の後には五十分間のディボーションの時間が定められていました。聖書のことばに触れ、祈る個人の時間です。ところが、私には五十分をどのように過ごすかが問題でした。何をしたらいいかもよくわかりません。もちろん聖書を読み、ディボーションの本などを読んだりするのですが、あまり心に入ってきません。祈祷課題をあげて祈りますが、何かお勤めをするようで、神様との交わりをもったかというと、はなはだ疑問でした。

危機的な試練の中で、必死に祈って応えられたという経験は幾度もありました。試練は私たちを祈りに導き、神との交わりに入れるというのは真実だと思います。けれども、それでは祈るために毎回試練を経験しなければならないことになります。継続的な「神は私の避けどころ」という恵みの時間をもって、生き生きとした信仰生活を送るにはどうしたらよいのでしょう?

私は、自分が多動症か貧乏性かと思うほどに、じっとしているのが苦手なタイプです。いつも何かしていたいのです。テレビや映画を観る時も、手の作業(書類の片付け、洗濯物の折り畳み)をしながらのほうが落ち着きます。駅のホームで電車を待つ間も、何もしないで立っているのは耐えられません。また、注意欠陥症ではないかと思ったりもします。祈っているうちに、考え事をしてしまいます。黙想しようと思っても、一分も経たないうちに雑念が入ってきます。

けれども神様は、「祈ることを教えてください」と尋ねた弟子たちにお答えになったイエスのように、私に祈ることを教えてくださいました。一つは「ふり返りの祈り」でした。私がよく参加した「静まりのセミナー」では、しばしば自身をふり返る時間を持ちます。ふり返る期間はさまざまです。その日、朝起きて会場までの移動の数時間、どのように朝目覚めて、身近な人とどんな対話があって、どんな感情を持ちつつ電車や車に乗って来たかなど。

また、長い期間をふり返る時もあります。過去数か月の自分をふり返ります。何の働きをしてきたか、喜んだことがあったか、がっかりしたことはあったか、その中で神の導きはどのようなものがあったか思いめぐらします。ふり返ることは、今の自分がどこに立っており、どこに向かっているのかを考える機会を与えてくれます。

私たちは日ごとにさまざまな経験をし、時には貴重な体験もあります。けれども、忙しさの中にまぎれて、それらの貴重な経験や、その時浮かんだ貴重な思いを忘れてしまっているのです。しかし、ふり返ることはそれをよみがえらせ、そこから祈る祈りは神様との交わりを深くしてくれます。

しばしばそのような時間の中で、自分がいかに傷ついているか、悲しみを持っているか、痛みを持っているか、気づかされます。また、自分の行ったあまり良くないことも思い出します。その時にはただ反省するというよりも、祈りつつ、自分の行為の背後にどのような思いがあったのかをふり返ります。それによって、悔い改めはより深いものになり、癒やしや導きなどの神様の取り扱いを受けることができます。

さらに神様は、思わぬ事態から私を祈りへと導いてくださいました。そのきわめつけは、二〇二〇年のコロナ下で発症した私の鬱でした。それは、牧会歴三十数年の最大の試練でした。以前から心の負担の積み重ねがあったのだと思いますが、その時、私は一か月ほど入院しました。生きていることの一分一秒がつらくて、のたうち回るような感情が数か月間続きました。まさしく祈らざるを得ない状況でしたが、祈りはただ、神に苦痛を訴え、ひたすら顔を伏せて耐えるというものでした。

今はその症状はほぼなくなりましたが、その頃、身につけた習慣に毎日散歩に出てしばらく外でボーっとするというものがありました。入院中は一時間の外出許可が出て、外に出て歩くと幾分気分が良くなるので毎日続けました。退院後も、それを続けました。近くに緑地公園があるので、私は屋外用の折り畳みのイスを持って、公園に歩いていきます。公園のベンチは、人が集まる上に背もたれがありません。静かにゆったり座り、そして祈るにはマイチェアーがとても具合が良いのです。

この時間が私にとって、大切な時間となり、毎朝起きるのが楽しみになりました。以前は、朝起きるのがつらく、日曜日の朝などは最悪でした。いろいろやっているうちに、だんだん以下のようなパターンに落ち着いてきました。

公園に着いたら、あまり人気のないところを選びます。夏は木陰、冬は陽だまりを探します。夏は冷たい飲み物、冬は温かい飲み物を忘れません。夏場は朝早い時間がベストですが、冬場だと人気が少なくなるので日中でも大丈夫です。着いたら、呼吸を整えながらしばらくボーっとします。考え事をしないように周りを眺めながら、ゆっくり数を数えながら呼吸をします。二十くらい数えると落ち着いてきますが、必要ならばもう二十数えます。しばらく耳をすませて周りの音に気持ちを向けます。セミの声や鳥の声、電車の音も聞こえます。雑念も入ってきますが、そんな時は覚えている聖書の一句(名詞)を心の中で口ずさみます。

最近は、私は「主は羊飼い」という言葉を繰り返します。それから昨日のことをふり返ります。無理はしません。ふり返って祈る時間が終わったら、スマホの聖書のアプリでみことばを聴きます。詩篇がとても良いと思います。音声が聴けるアプリはいくつかありますが、自分の感性に合ったものが一番良いです。英語で聴きたい人は、NIVがお薦めです。聴いた言葉の中で心に留まった一句があれば、その言葉に心を注ぎます。その言葉を通して、祈ることもあります。その後は、自分の願いやとりなしの祈りを祈ります。順序が逆になることもありますし、省略することもあります。試練の中にある時は自分の願いやとりなしが真っ先に来ます。さんざん神に訴えた後、少し落ち着いてから、静まってみことばに聴くようにします。

継続するためには無理はしない、自分にあまり負担をかけない、自分が楽しく安らぐ時間にすることです。ただボーっとするだけで終わってしまうことも、途中で眠ってしまうこともあるかもしれません。でも続けることです。一年、二年と続けるうちに明らかに生活に変化が起こります。聖霊は祈りの時間に働いて、私たちの生活を豊かに祝福してくださいます。