神さま、 なんで? 〜病院の子どもたちと過ごす日々〜 第11回「正義のヒーローたち」
久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟の子どもたちのパストラルケアに携わる。2012年に開設された「こどもホスピス」でも、子どもたちのたましいに関わり、現在に至る。
病院では、子どもたちがご家族のもとに戻れるように、医療スタッフは日々懸命に治療やケアにあたっています。それでも、子どもたちからすると、自分の意志とは関係なく家族から離されて怖いところに放り出された、という状況です。知らない大人の医療者たちに囲まれ、知らないお友だちと一緒の部屋で、あるいはたった一人の個室で、望んでもいない注射や点滴や苦いお薬を飲むなどの治療は、すべて受け身で引き受けなければなりません。子どもたちにとって、入院、治療は、非常にストレスが高く、たましいの痛みを伴うものですが、そのような中で、彼らが正義のヒーローであると感じることが多々あります。
あるとき、私は沈んだ気持ちを抱えてMちゃんの病室を訪ねました。病室に入るときは、「気持ちを切り替えて、笑顔で」と自分のこころに言い聞かせてお部屋に入りました。私のこころも守られて、Mちゃんと楽しく過ごしました。「あー、良かった」と安堵の思いでお部屋を去ろうとすると、Mちゃんが笑顔でこう言ってくれたのです。「くぼさん、おちゅかれさま」と。個室で過ごし、ストレスが溜まっていたMちゃんは、しばしば「くしょー!」と言っていました。そんなMちゃんが言ってくれた「おちゅかれさま」という言葉と笑顔は、私のこころを気遣ってくれていたようで、力と笑顔を注いでくれました。
赤ちゃんのころから入退院を繰り返しているNちゃんは、小学校に入ってからもよく抱っこをせがみます。「抱っこして。お願い。二分でいいから」と言いながら抱きついてきて離れようとしません。ある日、Nちゃんは自らを「正義の味方、抱っこマン」と名乗り、抱きついてきました。そして私の背中をトントンと叩くのです。驚いた私はNちゃんに聞きました。「なに? トントンしてくれるの?」と。するとNちゃんは嬉しそうに「久保さんが寂しそうにしているから、抱っこしてあげたの」と言うのです。私はNちゃんのその言葉がかわいくて、思わず笑ってしまいました。そして、「抱っこしてあげているつもりの私が、実は抱っこしてもらっていたのかぁ」と、こころがジーンとしました。入退院を繰り返しているNちゃんは、ママと過ごす時間が奪われてしまいます。Nちゃんがママを慕う健気な気持ちや優しいこころが伝わってきたように感じました。「本当に抱っこマンは正義の味方だな」と、胸が熱くなりました。
まだ小さいOちゃんは、初めての入院で、家族から離され、点滴や処置を受け、不安と恐怖でいっぱいでした。泣きながら、「パパー! どこなのー?」と叫んでいました。私はOちゃんに何と言えばよいのかわからず、祈るような気持ちで抱っこしていました。前日一緒に、童謡が流れる歌の絵本で遊んでいたことを思い出し、少しでも気持ちが切り替わればと絵本の童謡を歌うことにしました。なるべく楽しそうにと心がけ、大きな声で歌っていると、Oちゃんの気持ちも少し落ち着いたようでした。
次の日、引き続き不安でいっぱいの表情をしたOちゃんは私を見ると、歌の絵本を出してきて、「うたいたいんだよね? どーぞ、かしてあげるよ」と言わんばかりに、じーっと私の顔を見つめて順番にボタンを押しては歌のページを開いて見せてくれました。不安の只中にいるOちゃんが、訪ねて来た私に精いっぱいのおもてなしをしてくれているように感じて、こころが熱くなりました。
また、「今度は僕が久保さんのことを祈るね」と言って、私のために祈ってくれる子どもたちもいます。おそらく人生で初めて言葉にするお祈りが、自分のことではなく、他人の私のことであることに申し訳ないような、恥ずかしいような、でも嬉しくて泣きそうな気持ちになります。
入院治療をしている子どもたちの多くが、自分ではなく、家族や同室のお友だち、そして私たちスタッフのことを気遣ってくれます。入院中、痛い思いを経験し、受け身であることが多い分、人の痛みを察知し、思いやれるのかもしれません。そんな彼らを、私は正義のヒーローだと感じます。聖書のマタイの福音書のイエスさまの言葉、「最も小さい者」とは、病気で弱くされた子どもたちというよりも、私自身のことで、彼らのこころを通して私自身が神さまにケアされ、助けられている者だと感じます。私は、小さな正義のヒーローたちに支えられて、こころを寄せる謙遜さや祈りを彼らから日々学ばせてもらっています。
「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイの福音書二五章四〇節)