書評Books 聖さを 聖なる神との関係性の中で理解する

関西聖書神学校講師 横田法路

『聖化の再発見 上 旧約・教会史
主のようにきよくなる』
英国・ナザレン神学校 著
大頭眞一と焚き火を囲む仲間たち 訳

四六判・定価2,200円(税込)
いのちのことば社

 

『聖化の再発見 下 新約・聖化の用語
主のいのちあふれて』


英国・ナザレン神学校 著
大頭眞一と焚き火を囲む仲間たち 訳
四六判・定価2,200円(税込)
いのちのことば社

聖化の重要性を標榜するきよめ派の教会・クリスチャンはもちろんのこと、クリスチャンの霊的成長に関心をもつすべての人に大変有益かつ神学的にも画期的な貢献となる本が翻訳出版されたことを喜びたい。以下では、本書の特筆すべき点に絞って紹介する。

1 聖化の諸課題
まず本書の冒頭で、これまでの聖化理解やそのメッセージが抱えている課題が整理される。
・「全ききよめにあずかった」と主張する年輩のクリスチャンたちが教会の中でお互いに仲良くできない。
・ホーリネスのメッセージは律法主義的で、若い人たちは魅力を感じていない。
・ホーリネスのメッセージは時代遅れの神学用語を用いているので理解できない。
・聖書解釈において、ホーリネスの証拠とされる聖句の解釈が、説得力に欠ける。
・教義学的には、この世における罪のない完全を主張していると(多くの場合に)受け取られてきた。
・教会論的には、地域において他の教派から距離を置き、顕著にセクト主義的で偏狭な態度をとっている。
・世俗から離れるということを、現代文化に批判的にであっても関わることを拒否することだと解釈する。
・個人的な敬虔さを強調することが、社会的正義に関心を払わなくなる傾向を助長してきた。
私自身、日本のきよめ派の教会に属する者として、耳の痛いところも多々あるが、向き合わなくてはならない重要な課題がここに整理されている。本書の著者である英国ナザレン神学校(きよめ派に属する)の教授陣たちは、このようなホーリネスの課題を認めつつも、諦めない。なぜなら、旧新約聖書において、神は聖なる者であるから、私たちも聖なる者でなければならないと明確に命じられているからである(レビ19・2、Ⅰペテロ1・14〜16)。

 

2 「聖化の再発見」のための新たなアプローチ
聖化理解のための伝統的アプローチは、聖に関する用語(ヘブル語カデシュ、ギリシア語ハギアスモス等)を研究したり、個人的な聖化の経験を研究したりすることなどであったが、聖化の本質に迫るには不十分であった。

本書の著者たちは、聖化本来の輝きを取り戻すために、すなわち、「聖化の再発見」のために、新たなアプローチとして聖化理解の出発点に神を見る。

「神ご自身だけが聖なる存在である。他の存在すべての聖さは、神との関係に由来するものである」(W・T・パーカイザー)。

物も場所も存在も、神との関係においてのみ聖となる。したがって、クリスチャンの聖さというものも、聖なる神との関係においてのみ、私たちのものなのである。このように聖を神との関係性の中で理解することが、「聖化の再発見」の重要な鍵である。

この聖なる神を理解するために決定的に重要なのは、三位一体の神理解である。

「神は創造主であり、三位一体の神として存在し、静的ではなく動的な存在であって、このお方のコアにあるのは聖なる愛である。聖なる神は、被造世界を創造し、ケアすることによってご自身を啓らかにしておられる。……天地創造から万物の完成に至るまで、神はご自身を愛の神、創造の神、探す神、贖う神として知らせておられる。神のおこころは人をご自身との関係に招き入れることである。」

このような神の究極的な姿を、キリストのうちに見ることができる。キリストはその生涯において聖なる生き方の模範を示し、その死とよみがえりと聖霊の注ぎにおいて、私たちにも聖なる生き方を可能にしてくださったのである。

このように聖なる神が、その聖さを共有するために召された、聖ならざる人類に関わるところの物語が聖書であり、それを丹念にたどることを通して、聖化の聖書的理解を取り戻すことが可能になるのである。

著者たちは、実際に、創世記から始め旧新約全体を取り上げるが、その内容は秀逸であるのみならず、実に面白い(訳も読みやすい)。読後には、「主のいのちあふれる豊かでダイナミックな聖化」の恵みを新たに発見していることであろう。