神さま、 なんで? 〜病院の子どもたちと過ごす日々〜 最終回 「神さま、なんで?」
久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟の子どもたちのパストラルケアに携わる。2012年に開設された「こどもホスピス」でも、子どもたちのたましいに関わり、現在に至る。
小児科で出会う子どもたちは、年月を重ねて大人へと成長していきます。継続的に医療的ケアが必要な子どもたちとは、小児病棟を卒業した後も続けて関わらせていただくことがあります。大人になった彼らからも、大切なことをたくさん教えていただきます。
☆Pちゃん
Pちゃんはとても小さく生まれ、赤ちゃんのころから入退院を繰り返し、たくさんの手術や治療を受けながら育ちました。私は、Pちゃんが小学三年生のころに出会いました。たくさんの痛みを経験したPちゃんは、人の痛みに敏感で、好奇心旺盛なステキな女性に成長しました。成人した彼女とは、今でも毎月のように会ってお話をしています。
あるとき、幼いころ感じていたことだとお話ししてくれました。「小さいころ、運動会で自分だけ酸素を持って走らないといけなかったでしょ? 本当は、『なんでなんだろう? なんで私だけ?』ってそんなふうに思っていました。ほかにも、学校のお友だちと同じようにはできないことが自分にはたくさんあって、『なんでなんだろう?』ってずーっと思っていました。悔しいこともいっぱいありました。でも、小さかったから、言葉で自分の気持ちをお話しすることができなかったから、だれにも言えなかったんです。だけど、自分のこころの中で『どうして?』って問い続けていました」と。
子どもたちは、こころのつらさやもどかしさを「どうして? なんで?」という問いとして自分の中で持ち続けています。そのような問いは、子どもたちのたましいの痛みです。そのことをPちゃんがあらためて教えてくれました。医療の場で子どもたちに関わる私たちは、そのことをこころに留めて、子どもたちと向き合いたいと願います。ですが、私たちには子どもたちのこころを十分に受けとめることはできません。だからこそ、「どうして?」と問う子どもたちの存在をまるごと受けとめておられる神さまに祈る者でありたいと願います。
☆Q君
Q君は赤ちゃんのときからキリスト教病院で多くの時間を過ごし、聖書に触れてきました。大人になった今も、Q君のお部屋をお訪ねするときには聖書のお話を読んで、お祈りの課題を聞きます。
でも、私が「一緒にお祈りしよう」と言うと、きまって、「ええわ、先生が後でしといて」と断られてしまいます。ところが、あるときの入院から一緒にお祈りをするようになりました。
それはQ君にとって今までで一番ショックな入院で、身体の機能が願ったように働いてくれなくなった時でした。「『神さま、なんでなん?』って言いたい。
神さまには悪いけど腹が立ってくる。なんで自分の願いは聞いてもらえないんやろ?」とQ君は繰り返し言いました。「僕の本当の願いはかなえられないことになっているんや、とほんまに思った。
自分は病気からは離れられない人生に選ばれたんだと思う。まだいけると思ってたのに、なんでやろ?」と。Q君の悔しさや不甲斐ない気持ちが伝わってきて、私は圧倒されました。そのとき、Q君が手を組んで祈った姿は忘れられません。
しばらくの入院を終え、Q君は退院しましたが、数か月後、再び入院せざるをえなくなりました。いつものようにお話をしていると、イエスさまの話題になり、Q君がこう言いました。「イエスさまはなんで十字架にかからんとあかんかってんやろ? 天の軍勢が来て助けることだって、きっとできたやろ? でもなんで?」と。
私は「本当にそうだなあ」と思いながら、「イエスさまは、私らに生きてほしいんだよ。天の軍勢が来ることだってできただろうけど、イエスさまはそうはせずに、私らの罪を赦して、私らが生きるために、いのちをささげてくださったんだよ。イエスさまは、私らが人生で経験する『なんでなん?』を、いのちをかけて十字架で全部背負ってくださったんだと私は思う」とお話ししました。
十字架上で「わが神、わが神、どうして」と叫ばれたイエスさまは、私たちの「どうして?」をご自分の「どうして」として、いのちをかけて引き受けてくださったのではないかと私は思います。
人生には「神さま、なんで?」と言いたくなるときがあります。私たちは、生きるなかでそのようなたましいの痛みを経験します。ですが、私たちはひとりで痛みを背負うのではなく、痛む私たちをイエスさまが背負ってくださり、たましいのやすらぎを与えてくださる、そのことをQ君はあらためて教えてくれました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書一一章二八節)