特集 神のことばに「安息する」避け所なる神

「今年こそ、聖書を読もう」「通読、がんばろう」と目標を立て、気合を入れる新年。「がんばる」から少し視点を変えて、「安息する」ことについて考えてみませんか。新しい年の始まりに、みことばに親しみながらも「安息」できるような書籍を紹介します。

ニューライフキリスト教会 牧師  豊田信行

 

私が九歳のとき、巡回伝道者だった父が山中での徹夜祈祷中に召されました。お別れの言葉も交わすことなく、父は、二人の祖母、母、五人の息子たちを残して逝ってしまったのです。父のいない寂しさに襲われたとき、押し入れに入り、布団の間に顔をうずめ、声を押し殺して泣きました。そして神様に「なぜ、お父さんを守ってくれなかったの? どうして死んじゃったの?」と何度も問いかけました。返事はありませんでした。いつも泣き疲れ、押し入れの中で寝てしまいました。

ダビデは、「どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください」(詩五六・八)と祈りましたが、布団に染み込んだ私の涙も、神様が忘れられることはなかったのです。あの頃の私にとって押し入れは「神の避け所」でした。

「神は われらの避け所 また力。
苦しむとき そこにある強き助け。」
(詩四六・一)

祖母とのディボーション
「さあ、テーブルに集合」と祖母の号令がかかると、まだ幼かった一番下の弟以外、長男の私と二人の弟は遊びを中断し、聖書を手に祖母のもとへ集まりました。父の死後、小学校の夏・冬休みの期間、聖書を一章読むことが毎朝の日課となりました。子どもたちで数節ずつ輪読しました。

一章を読み終えると、祖母は決まって、「今日の箇所から神様は何を語ってくれた?」と質問しました。聖書知識が乏しく、教えることができなかった祖母にとっては、苦肉の策だったのかもしれません。聖書箇所を読み直し、神の語りかけを必死に聞こうとしましたが、何も聞こえてきませんでした。目をつぶり、黙っている祖母の存在はプレッシャーでした。聖書の語りかけを必死に聞こうとした幼い頃の経験は、みことばに傾聴する心を育んでくれたように思います。聖書は読むだけでなく、聴くものだと教えられました。

内的変容
その後の聖書の読み方に影響を与えてくれたのがキリスト教霊性の先駆者のひとり、リチャード・フォスターの名著、『スピリチュアリティ 成長への道』(日本キリスト教団出版局)との出合いでした。本書からイエス・キリストに似る者へと変えられていく営み(霊的形成)は霊的な体験だけに頼らず、キリスト者の日々の修練の必要性を教えられました。フォスターが内的変容のための聖書の読み方について書いた、Life with God: Reading the Bible for Spiritual Transformationにも深く共感しました。

「私たちが聖書に接するとき、ゆっくりと深く深呼吸し、心で読むとよいでしょう。この『心で読む』という聖書へのアプローチは、神の民の間では長く、由緒ある歴史があります。レクチオ・ディヴィナ(lectio divina)とはラテン語で神聖な読書、または霊的読書という意味があります。聖書のテキストに耳を傾ける、つまり、真剣に耳を傾けること、へりくだってじっと耳を傾けることを意味します。聖書に身をゆだねること、つまり、聖書のテキストを支配しようとするのではなく、そのメッセージが私たちのなかに流れ込んでくるように心を開くことなのです。」

困難や苦難のなかで、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリント一〇・一三)との御言葉に立つことで、試練に耐える力が与えられます。そのように御言葉を用いることは有益です。しかし、内的変容のために聖書を読むとは、聖書の世界に招き入れられることなのです。

ヨセフ
父の死後、三か月が経った頃、生後三か月になっていた五番目の弟が養子として引き取られました。当日の朝に、私は養子の件を母から知らされました。養父母となるご夫妻の腕に弟が抱かれたとき、「返してー」と取り返そうとしました。しかし、駄目でした。弟の乗せた車が走り去るのを追いかけました。

数年前、養父の方とお話しする機会がありました。「少年だった信行さんが『返してー』と追いかけて来たとき、心が引き裂かれる思いがしました」と打ち明けてくださいました。エジプトの奴隷として売り飛ばされたヨセフと兄たちの再会の箇所を読むたびに、聖書の世界に引き込まれました。

「ヨセフは声をあげて泣いた」(創四五・二、三)。

一番下の弟との再会を夢見て、何度ヨセフと一緒に涙を流したかわかりません。ヨセフの深い悲しみに触れるだけでなく、神の深い慰めにも与ることができました。

聖書に登場する実在の人物たちの苦悩も、悲しみも、神の慰めをもたらしてくれます。彼らと一緒に笑い、悲しみ、苦悶するとき、強い連帯感が生まれます。私たちもイエス・キリストにあって、神の民とされていることに目が開かれていきます。聖書を読むと心が不思議と落ち着くのは苦悩のなかにある孤立感が癒やされるからでしょう。孤立感のなかで魂を蝕む自己憐憫という重荷を下ろすことで、魂に深い安息がもたらされるのでしょう。

彼らに真実を尽くされた神は、私たちにも真実なお方であるとの確信がいっそう深まります。
また、聖書は驚きの感覚を回復させてくれます。旧約聖書学者のウィリアム・ブラウン(コロンビア・セオロジカル・セミナリー)の言葉を引用します。

「この世界における神の存在と働きを目撃することは、何よりもまず驚嘆することです。驚きがなければ、『不思議なことをなさる』神への信仰は行き詰り、淀んだままです。」

内的変容が起こるのは、神との驚きの体験によります。それは奇跡体験のようなものより、日常生活の中で見落とされている神の働きに気づくことです。イエスは経済的に困窮し、不安な暮らしの中にいた人々に向かって、「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(マタイ六・三〇)と父なる神が野の草を装われていることに感嘆されました。おそらく、誰もイエスの言葉に共鳴しなかったことでしょう。それは、日常のありふれた光景でしかなかったからです。

しかし、聖書の世界に満ちている不思議によって驚きの感覚が養われるとき、世界は神の働きで満ちていることに目が開かれていくことでしょう。魂の安息は神の精力的な働きを信頼して、身をゆだねることによって訪れます。

 

二〇二三年一月発売予定
 豊田信行著『イエスと共に過ごす安息日』
定価一四三〇円(税込)