孤独の中の友へ 〜信じても苦しい人に送る「片道書簡」二回目 愛のない者と愛のある者の違い
中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。
皆さんは、自分って愛がないなぁと落ち込んだりするときってありますか? 私はよくあるんですよ。ある朝もそうだったんですが、その時に体験したことを今日はお話ししますね。
何となく重苦しい気持ちの朝でした。何かがあったわけではないのです。ただ、街にいる人を見て、あの人の笑顔は素敵だなぁとか、人に対して優しそうで愛があるなぁと、うらやましく思っていました。そうやって人を見始めると、自分と比べてしまうんですよね。あの人は愛があるのに、私なんか最低だ。どうしてこんなこともできないのだろう。私なんていなくても世の中変わらないんじゃないか、と思ってしまうのです。そうするともう、この人と比較することで自分を見下し、もっと苦しくなってしまうのです。
百五十円の勇気
そんな時に、ふと聖書に出てくる貧しいやもめの話を思い出しました(マルコ12・41~44)。そうです、お金持ちがたくさん献金している中でささげた、あのやもめの話です。ここでこのやもめが持っていたのは、レプタ銅貨二枚でした。だいたい今でいうと百五十円くらいです。ものすごい勇気ですよね。私だったら、チャリンと音が鳴ったらどう思われるかとびくびくしちゃいます。
また、こんな金額を献金しても何の効果もないと周囲から思われるのではないかと、その場にいられなかったかもしれません。でも、このやもめはこの場にいるんです。どうして彼女はここにいることができたのかを考えてみました。
やもめの孤独
やもめである、ということは、彼女が直面している貧しさは深刻だったはずです。貧しいだけではなく、この当時、一家の大黒柱がいない孤独な人生を歩んでいたでしょうし、働くこともできなかったはずです。レプタ銅貨二枚も、彼女にとっては大金だったのだろうなぁと思ったのです。
お金のある・ないで比較したら、このやもめはないほうでしょう。でも、彼女はありったけのお金を持ってきていたはずです。逆に、お金持ちで大金を献金している人たちは、必要な分だけ、できる範囲で持ってきていたかもしれません。この金額を献金しようと計画をして、数か月間貯めて、目標金額に達成したから喜びとともにそれを持ってきた。この献金で自分の願いを叶えてもらおう、と思っていたかもしれません。
しかし、このやもめにはそんな思いは一切ないのです。「~してほしい」という欲求も、見返りを求める心もないのです。あるのは、何もない自分の存在だけなのです。
真心って空っぽの心?
今の私は、ここに出てくるお金持ちの人たちのように、いろんな自分の思いが心の中にあるなぁと感じました。思いどおりに生きていきたい。こうしてほしい。ああしてほしい。そんな思いばかりで苦しかったのです。人と比べて、「自分なんて……」と思っていたわけです。そこには平安はありません。でも、このやもめの心には平安がありました。そうじゃなかったら、ここにいられませんよね。
彼女は(お金や愛が)あるかないかを超えて、いくら持っているか十分じゃないかという計りを超えて、献金をするという行動も超えて、ただ真実の愛である神様と出会っていたのです。
ここにあるのは「何かをする信仰」ではなく、「待ち望む信仰」です。ただ、“空っぽの心”をもって主を礼拝していたのです。このレプタ二枚の銅貨を差し出す行為は、彼女の真心なのです。だからこそ、「私はあなた(神さま)が必要です」と告白できたのではないでしょうか。
この箇所を思い起こした後に、決して自分の憂鬱が解決したわけではありませんでした。でもイエス様のことを思っていると、自分の心が空っぽに思えていた空虚感が次第に、このやもめの女のように何もないのは、「私にはあなたが必要なのです」という真心に変わっていったのです。
静かに祈りながら、ただ主を待ち望む。そんな朝も悪くないなぁと思いました。なぜなら、かならずイエス様はそんなあなたを捜し出してくださり、自分には愛がないなぁと思うあなたの心に光を照らしてくださるからです。自分で自分を見るとつらくなります。どんな時も神様を見上げていきたいですね。
※今回の連載の内容をさらに詳しく知りたい方は、以下から中村先生のメッセージが聞くことができます。
youtubeチャンネル「飯能の山キリスト教会」https://www.youtube.com/@nogarenomachi