341 時代を見る眼 今、カルトを問い直す〔2〕「カルト」と「異端」のはざまにあるものとは
日本基督教団仙台宮城野教会 牧師
齋藤 篤
私たちがカルト問題について考えるときに、一方で「異端」という言葉が存在することをよく知っています。そして、私たちは「異端・カルト」という言葉の使い方をすることによって、異端とカルトを同一線上のものとしてとらえることがあるでしょう。
そのような言葉の使い方をすること自体、決して間違っているわけではありませんが、異端・カルトがそれぞれに指し示している意味を正確に表しているわけではありません。そして、場合によっては異端とカルトを一緒くたにすることによって、とんでもない誤解を引き起こすことを、私たちは十分に理解する必要があると私は感じています。
異端とはなんでしょうか。それは「正統ではない」という意味ですが、大切なのは、何をもって正統とするかということなのです。つまり、正しいという基準は、きわめて主観的なところから起因しているという自覚が必要なのです。
キリスト教の場合、正統か異端かという基準は、使徒信条をはじめとする基本信条であることを、教会は長い歴史のなかで大切にしてきました。じつは、異端であるか否かという判断は、父・子・聖霊なる神が、私たちの神とされるということ以外には存在しないのです。
ですから、単に自分の好みに相容れない、やり方が微妙に違うという理由だけで、その教会や教派を異端呼ばわりすることは、厳に慎む必要があるでしょう。あくまで、三位一体の神を神とすることが大切であり、私の基準が絶対となる、つまり「神」となることのないように心がけることが重要です。
じつは、異端とカルトが別の定義を持ちながらも、同一線上で語られる理由がそこにあります。
つまり、本来神とされるべきものが神とされず、自分自身が神になることによって、従わせようとする対象が生まれる。そこにはゆがんだ支配構造が生じ、このゆがんだ支配構造こそ、カルトの根源となるからです。
異端とカルトは別物でありながらも、この二者のはざまには親和性があることを、私たちは心に留めておく必要があるでしょう。
つまり、異端とは「三位一体の神を神としない、自分自身が神となろうとする態度」から起きるものであり、その態度が他者を抑圧し、自分の思いどおりに支配しようとするときに、そのような環境がカルトであると言えるでしょう。