ギリシア語で読む聖書 第5回 「信仰とは」(イポスタシス)

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

最近、「聖書」ほど誤解されている書物はないのではないかと思わされています。言うまでもありませんが、聖書の真理性(「いのちのことば」)は、聖書の中に在る一つ一つの言葉を超えて、神の中に在ります(もっとも、私たちはその一つ一つの言葉を通してしか神を知りえませんが……)。
主イエスは、こう言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5・39?40)
これは、当時のユダヤ人たちの聖書(神の律法)に対する姿勢の根本的な誤解、矛盾を指摘なさった言葉と思われます。聖書の中にイエス・キリストを読んで、信じて、この方のもとへ行かなければ、聖書を読んだことにはならないと言われるのです。
そのユダヤ人に対して、くっきりとイエス・キリストを指し示している書の一つが、ヘブル人への手紙です。この書の著者はよく分かりませんが、使徒パウロがヘブル語で書き著し、医者ルカがこれをギリシア語に置き換えたと主張するのが、アレクサンドリアのクレメンスと呼ばれる人です。やはり、このギリシア語そのものは、パウロのものにしては、あまりにも散文的で美しく、感情をもろに込めて書くパウロの破格構文的なギリシア語とは違う、とよく言われます。確かに、ヘブル人への手紙のギリシア語は難しいです。私も、これはルカのギリシア語ではないかと思っています。
アテネ大学で、私の恩師ブルガリス教授の「ヘブル書」のクラスを受けたことがあります。ブルガリス先生が、UBS版のギリシア語本文から声を出して朗読されたあと、「ギリシア語は美しいなあ」としみじみ言われたのを忘れることができません。ギリシア人が言うのですから、間違いないです。
そのヘブル人への手紙の中に、信仰について書かれている箇所があります。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11・1)
この言葉は、日本語に訳されたものを読むと少し分かりにくいですが、実は原文ではシンプルな表現です。構文自体を分かりやすく言えば、「信仰は、希望していることの保証、実体 ()であり、見ていない事柄の曝露 である」となっています。

この保証、あるいは実体と訳されるですが、一世紀にエジプトのごみ溜めから発見されたパピルス文書の中に、この言葉が使われた文書がありました。それは、土地の所有権証書でした。まだ、行ったことも見たこともない土地であったとしても、その証書があれば、その土地は自分のものであることを保証するのです。信仰とは、そのような、まだ見ていない永遠のいのちの約束の所有権証書のようなものなのです。
もう一つの、信仰はまだ見ていない事実の曝露というのも興味深いです。動詞  ()は、「曝露する、咎める」という意味を持つ言葉です。
アテネにいたとき、何度もバスや電車を利用しました。日本と違って、改札口に立っていて、ちゃんと切符を持っているかを調べるような人はいません。誰でも自由に改札口を通って自由にバス、電車に乗ることができます。全部自己責任なのです。自分で前もって買った切符を車内の機械で、自分でガチャンと押して無効にせねばなりません。その切符を持っていないと「無賃乗車」として追及されま
す。
時々、平服の交通局のおじさんが「切符を見せろ」といきなり言ってきます。そのおじさんのことをギリシア語で( )と言います。「曝露屋さん」です。ラジオのニュースでアテネ大学の教授が無賃乗車をしていたことが報道されていました。
このように見てみますと、信仰とは、まだ見ていない事柄を曝露させるものだと言うのです。私たちは、何の根拠もないことを「イワシの頭も信心から」みたいに信じているのではありません。ハンカチの下に隠れて見えない物でも、確かにハンカチの下に何かがあると確信することができます。信仰とは、それほどリアルなものであることを、ヘブル人への手紙の著者は言おうとしているのです。