ギリシア語で読む聖書 第6回 「勝手に解釈してはいけない?」(イディアス エピリセオス)

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

いったん聖書が誤って解釈されると、その理解を修正することは、なかなか難しいものです。それほど「聖書」は、人々の普段の生活の中に根を張っていると言うこともできます。
ただ、私たちは「聖書」という書物に書かれた文字に縛られて生きているのではありません。言い換えれば、私たちは「聖書の言葉」に責任を押し付けて、「信仰」と言いながら神の冷たい原理を生きているわけではありません。このような姿勢は、古代ユダヤ人が神の「律法」に対して持っていた「律法主義」の残骸、名残りと言うことができます(ヨハネ5・39参照)。
Ⅱペテロ1・20の「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである」(口語訳)、「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい」(新改訳2017) という言葉は、教会・教団のお偉いさんたちにとって都合の良い言葉のように思われてなりません。「聖職者」こそが、聖書を解釈する権威があって、何の訓練も受けていない「平信徒」は、聖書を勝手に解釈してはならないというふうに理解され、この箇所が引用される場合があります。
確かに、何の訓練も受けていない人が聖書全体の理解もないまま、強引に我流式に聖書を解釈することにまったく問題がないとは言えません。しかし、よく読むとこの聖句は、預言の言葉を読む側の姿勢や解釈について言及するものではなく、すべての預言が、預言者自身の解釈ではないことを言おうとする言葉であることが分かります。
では、Ⅱペテロ1・20の原文の文章を見てみましょう。

となっています。文章は、「ダルマさんが転んだ」というふうに、最低限、主語(「ダルマさんが」)と動詞(「転んだ」)があって初めて一つの思想を表すことができます。「まず初めにこのことを知るべきである」という言葉があって、問題は、「このこと」を示す以下の文章です。
この場合、主語は「聖書のすべての預言はです。動詞は「~ではない です。何でないのか? それが(「自分自身の解釈」)ではないと言っているのです。ただ、これは単なる「~ではない」 の補語ではなくて、「(預言者)自身の解釈から」という「源泉」を表す奪格(ablative) なのです。
つまり、著者は「聖書の預言のすべては、(預言者)自身の解釈に源泉するものではない」ことを言おうとしたのであって、預言の言葉は、人間の解釈ではなく神に源泉するものであり、確実であることを言おうとしているのです。
そのような意味では、NIVの英語訳は適切であると思われます。“Above all, you must understand that no prophecy of Scripture came about by the prophet’s own interpretation of things.” となっていて、実に明瞭です。
このように、ここでは「読者が勝手に解釈してはいけない」ということは、まったく意図されてはいません。そうではなく、聖書の預言は、預言者自身の人間的解釈から出ているのではないことが意図されているのです。
ちなみに、現代のギリシア人がこの箇所を読んだ場合、ギリシア人にはどのように聞こえるのでしょうか。筆者がアテネに滞在していた時に手に入れた、現代ギリシア語に置き換えられている聖書によれば、Ⅱペテロ1・20は、

 

となっています。直訳すれば「聖書の預言は、どれも預言する者自身の説明に依拠するものではないことが、まず認められるべきである」となっているのです。
このように理解すると、この後に続くⅡペテロ1・21の言葉、「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」という言葉に、よく合致し理解しやすいと思われます。ペテロの手紙第二は、聖書の預言は預言者の側で勝手に解釈したものではなく、神に源泉があることを言おうとしたのであって、預言を読む側の姿勢について書いたのではありません。したがって、この箇所は、聖書を読む読者が勝手に解釈してはいけない、ということを言おうとしている箇所ではないと思われます。