京都のすみっこの 小さなキリスト教書店にて 第四回 「尊厳」ということ

CLCからしだね書店店長 坂岡恵
略歴
社会福祉法人ミッションからしだね、就労継続支援A・B型事業所からしだねワークス施設長。精神保健福祉士。社会福祉士。介護福祉士。2021年より、CLCからしだね書店店長。

CLCからしだね書店を運営する就労支援事業所に通っていた陽子さんには、チイちゃんという子どもがいます。軽い知的障害をもつ陽子さんが妊娠したとき、ご家族はとても驚いて、おなかの子の父親が誰なのかを聞き出そうとしました。でも陽子さんは頑なに口を開かず、「生む」という決意も揺らぐことはありませんでした。「陽子は生まれてくる子を、お人形さんだと思っている」とご家族は心配しましたが、陽子さんはおなかの中でいのちを育み、やがてかわいらしい女の子を出産しました。生まれたばかりの我が子に「チイちゃん」と名前をつけてお乳をふくませた陽子さん。でも、チイちゃんはまもなく施設に引き取られていきました。
それからの陽子さんは、チイちゃんと一緒に暮らすために何ができるかだけを考え、誰に何を言われても決してあきらめず、面会日には何を置いてもチイちゃんに会いに行きました。
あるとき、陽子さんがぽつりと言いました。
「私が会いに行っても、チイちゃんは保育士さんのほうに逃げて行ってしまいます。」
なぐさめる言葉も見つからないまま、私は私が言えるせいいっぱいのことを伝えました。
「面会のたびに『お母さんはチイちゃんが大好き!』と言って、ぎゅうっと抱きしめてあげてくださいね。イヤイヤをするかもしれないけど、『お母さんはチイちゃんが大好き!』と言って、ぎゅうっ、ですよ!」
彼女は、私の提案を律儀に守り通したようです。
「チイちゃんは、私がぎゅうってすると、笑いながら体をクネクネさせるけど、逃げていきません。私にぎゅうっとされるの、うれしいのかな?」
やがて陽子さんは、からしだね館から離れてフルタイムで働き始めました。早くチイちゃんと暮らしたかったからです。
ある日、久しぶりに陽子さんから電話がかかってきました。切羽詰まった声で「教会に行きたいんです!」と言います。詳しい事情も聞かず、私たちはすぐに教会を探しました。うちの法人の役員さんが、陽子さんの家の近くの小さな教会を紹介してくださいました。「その教会の牧師夫妻は、とてもとても優しい人たちですよ」と役員さんがおっしゃったので、私たちは心から安心しました。
それからまた数年が経ち、陽子さんの教会の牧師さんがひょっこり書店に来店して、陽子さんがその後すぐ洗礼を受けたこと、仕事もがんばっていることを教えてくださいました。チイちゃんは高校を卒業し、就職も決まり、近々、親子で一緒に暮らすとのことです。
陽子さんが教会に行こうと思った理由は、「悪いこと」をしたからだったそうです。「通勤手当をもらっているのに歩いて通勤したことがある」というのが、陽子さんの言う「悪いこと」でした。周囲がいくら「そんなのは悪いことじゃない」と言っても、陽子さんは頑として「いいえ、悪いことです」と言い張ります。なぜなら陽子さんの眼と心は、「悪いこと」をした後ろめたさで曇ってしまい、その曇りは陽子さんに耐え難い苦しみをもたらしたからです。
「教会は、私を『悪いこと』から助けてくれるかもしれない。」陽子さんは、紹介された教会を訪ね、優しい牧師夫妻と出会い、「悪いこと」を神様の前に差し出してお詫びし、イエス・キリストが自分のために十字架にかかってくださったことを信じました。眼と心の曇りがすっと晴れていくのを感じた陽子さんは、「私はこれからずっと、イエスさまを信じて生きていこう」と思ったのだそうです。
からしだね館の職員は、障害をもつ人たちとのかかわりの中で、神がお創りになった人の尊厳、いのちの尊厳を守ることを仕事としています。私たちが全力で専念するべき領域はそこにあります。福祉は伝道のための道具ではなく、そこを間違えると相手の心の自由を奪い、たましいまでも支配する道に迷いこんでしまいます。それは、人の尊厳を侵す行為となりますから、キリスト者として福祉に携わる私たちは、よっぽど心しないといけません。
ですが時々、私たちの目のずっと端っこのほうで、からしだね館で時間を共にした人が、イエス様を信じて生きる道を選ぼうとする姿を見せていただくことがあります。陽子さんは私たちに、曇りのない眼と心を失わないために闘う姿と、自分の信じる道を切り開いていくやわらかな意志を見せてくれました。
きっと神様はそういう人が大好きなんだと思います。なぜならそういう人の中には、人のいのちの尊厳が宝物のように輝いているからです。