孤独の中の友へ ?信じても苦しい人に送る「片道書簡」四回目 愛のない者は、神を知ることができない!?

中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。

今日は弱音を吐かせてください。何となく人がたくさんいる所にいても、よけいに孤独を感じることってありますよね。それは、やっぱり人をうまく愛せない時に感じるのかなぁと思ったりしています。
「教会は罪人の集まりだから、ありのままでいいよ」と言われても、やっぱりクリスチャンにとって、人を愛せないというのは何となくだめなんじゃないかなと感じてしまい、どこかで無理して人を愛そうとしてしまうのです。そして、できない自分に失望し、また孤独の中に閉じこもってしまうわけです。今日は、この孤独から愛について考えたことをお話ししようと思います。
愛するパワーはいらない!?
自分の中に“愛するパワー”があれば、いつでも人を愛せるのにと思ってしまいます。そう考え始めると疲れますよね。本当に。だからこの間、逆の立場になって考えてみたんですよ。そうしたら新しい発見があったのです。というのは、もし私が“愛するパワー”で愛されても素直に愛を受け取れないと感じたんです。愛するパワー全開の人からゴリゴリに愛されて、「こうしたらいいよ」なんて解決策を言われても愛は感じないし、逆にどうせ私なんてだめだと思ってしまう気がしたんです。そんなのやだなぁと思って、次に自分が愛を感じる人たちのことを思い出してみました。そうしたら、まぁ、びっくりしました。その人たちはみんないろんな問題を抱えていたり、弱さを持っている人たちだったのです。
愛がないから愛せるのかも
聖書に、「愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています」(Ⅰヨハネ4・7)と書いてあります。愛は「私」からではなく、「神」から出るというのです。ということは、私は“愛するパワー”を得るよりも、まずは神様を知ることのほうが大切なのではないかなぁと思ったわけです。
ヨハネの手紙第一4章の続きには、「神の愛が私たちに示されたのです」(9節)とあります。それは、“だれかを愛するパワー”で自分を満たすことではなく、逆に、神様が私を愛してくれていることを謙遜に受け取ることなんだと気づいたのです。
そのことに気づいたとき、私の周りにいる愛の人たちはみんな自分の弱さを知っている人たちなんだとわかったのです。“愛せない自分”を認め、へりくだり、だからこそ、愛の源であるイエス様が必要ですと告白する人たちだったのです。人に伝わる愛は、“愛するパワー”ではなく、「私ではなく、主です」という謙遜さなんだなぁと思ったのです。もしそうなら、私たちが求めるべきものが変わってきますよね。
愛するパワーではなく、愛が私のうちにはありませんと、愛の源であるイエス様のもとにへりくだればいいのです。そうしたら、なんだか自分の心が軽くなりました。
「嫌いな人を愛せますように」と必死に祈っていたときは、なんだか自分の思いを握りしめて、「こうできないとだめだ」と自らを責め続けていたように感じました。でも、イエス様のもとに素直に自分の弱さを持っていくと、私の心は解放されると気づいたのです。

惨めさと十字架
イエス様は私たちの罪を贖うために十字架に架かってくださいました。十字架は贖罪の場所、私たちが自分にはできませんと告白する場所ですよね。「私は愛することのできない、弱い罪人です」と告白するところにイエス様は来てくれます。「そうだよ、だからわたしはあなたのために十字架に架かったんだよ」と声をかけてくださるのです。ここに愛があります。
パスカルは、「人は何でも知っているから偉いのではなく、逆に無知であることを自覚しているから偉いのだ。道徳的に素晴らしいから偉いのではなく、むしろ惨めで罪深いということを自覚しているからこそ偉い」と言いました。
私たちが愛せないことを孤独の中で認め、その惨めさによって心を空っぽにするときに、その空洞にイエス様が来てくれるはずだと思いました。ということは、本当の意味で人を愛せる人は、愛が自分の中にはないことを知っている人ですよね。そして、愛の根源は神様であることを知っている人です。だからこそ私たちは心を開いて、イエス様を迎えることを大切にしたいなぁと思います。

※今回の連載の内容をさらに詳しく知りたい方は、YouTubeチャンネル「飯能の山キリスト教会」から、ロングバージョンのメッセージを聞くことができます。
https://www.youtube.com/@nogarenomachi