特集 物語で伝えるイースター「やかまし村」の復活祭 ~翻訳文学で得たキリスト教への親近感~
児童文学作家・翻訳家 小松原宏子
「……さて、そのあと、六人は、めいめい、お菓子いりの復活祭の卵をさがしはじめました。おかあさんが、みんなのぶんをかくしておいたはずなのです。……」
これは、『やかまし村の春・夏・秋・冬』の一節です。三軒の家だけの小さな小さな村「やかまし村」と、そこに住んでいる六人だけの子どもたちのお話です。『長くつしたのピッピ』で有名なスウェーデンの作家リンドグレーンが書いた「やかまし村シリーズ」三冊のうちの二作めで、冬のクリスマスから始まり、春の復活祭、夏の水遊びと続き、秋の新学期で終わる物語です。小学生だった私は、リンドグレーンが大好きで、どの作品もくり返し読んだものですが、特にこの「やかまし村」のシリーズが好きでした。
リンドグレーンは、その想像力を縦横無尽に働かせ、現実にはありえないような子どもたちの活躍を描くのが得意でしたが、「やかまし村シリーズ」では、ふつうの子どもたちが日常生活のなかで、遊んだりけんかをしたり、ちょっとした冒険をしたりするだけです。それでも、当時の日本の子どもたちにとっては、そこに描かれている何もかもがめずらしく、すてきに思えたものでした。
なかでも、復活祭の卵探しは、外国の暮らしへの憧れをかきたてるものでした。「復活祭」が何かも知らなかった私ですが、その言葉の響きといい、リボンをかけた卵(挿絵があるのです)をお母さんが隠してくれて、それを子どもたちが探すという楽しい行事といい、「ヨーロッパの子どもたちはなんと幸せなのだろう」と、うらやましくてたまりませんでした。昭和のノンクリスチャンの家庭では、そんなふうに大人が子どもを楽しませてくれるなんて、考えられないことでした。
その前の章のクリスマスの場面も同じです。子どもたちがショウガ入りクッキーを焼き、天井まで届くほどのクリスマスツリー(これも挿絵があります)に飾りつけをし、村じゅうの子どもたち(といっても六人しかいないのですが)にクリスマスプレゼントが配られる……そんなすてきなクリスマスを、いつか自分も過ごしてみたいものだと夢見たものでした。
その後、ミッション系の高校に進学した私は、学校のクリスマス礼拝なども経験したものの、教会に足を踏み入れたのは成人してからでした。けれども、教会の庭で、日曜学校の子どもたちがイースターの卵探しをしているのを初めて見たとき、「ああ、『やかまし村の復活祭』だ!」というときめきと、子どものころ何度も思い描いた情景のなつかしさが同時に押しよせてきたことは忘れられません。
幼稚園から大学までの一貫校であるミッションスクールに、高等部から入学した「外部生」の私は、聖書や讃美歌をよく知っている人たちのなかで、時に疎外感を持つこともあれば、キリスト教に反発することもありました。けれども、幼いころから翻訳文学―幼稚園時代は『ひとまねこざる』(おさるのジョージ)のH・A・レイや『ちいさいおうち』のバージニア・リー・バートンなどの絵本、小学生のころはリンドグレーンをはじめ、『ナルニア国ものがたり』のC・S・ルイス、『人形の家』のルーマー・ゴッデン、『床下の小人たち』のメアリー・ノートンなどの読み物、中学・高校ではモンゴメリの『赤毛のアン』のシリーズや、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』といった古典名作―に読みふけっていたおかげで、どこかに欧米の暮らしやキリスト教行事の風景に親近感を持っていたのだと思います。
これらの本に出会ったのは、ほとんどが子どものころに通っていた「ムーシカ文庫」(児童文学作家のいぬいとみこ先生が開いていた地域文庫)でのことでした。週に一回、二冊の本を貸してもらえたこの文庫で、私は知らず知らずのうちにキリスト教文化に出合っていたのかもしれません。いぬい先生は、作家活動に入る前は岩波書店の編集者として、翻訳文学を積極的に出版していました。いぬい先生自身もクリスチャンで、ムーシカ文庫では毎年クリスマス会もしていました。
ふしぎなめぐりあわせで、私は今自宅を開放して「ロールパン文庫」という家庭文庫を開いています。この文庫では、クリスマス会はもちろんのこと、イースターの行事もあります。年度の終わりに、進級・進学する子どもたちへのお祝いも兼ねて、卵探しのイベントをするのです。
そのときは、前の日に文庫仲間のおとなたちが集まって大量の卵を茹で、色をつけ、お菓子といっしょに袋詰めをします。仲間とわいわい準備をする時間は、私たち大人の楽しみでもあります。でもそのさなかにも、ふと手をとめて、「ほんとうは子どもの時に卵を探したかったな」と切なくなる一瞬もあります。
そんなとき私は、本を通して世界中のクリスマスやイースターを過ごしたことに思いをはせます。幼いころムーシカ文庫に出合ったことも、そこで外国の物語をたくさん読んだことも、ミッションスクールに入学したことも、担任の先生のお住まいがたまたま同じ沿線で、教会を紹介していただいたことも、のちに洗礼を受けたことも、みな本当に「ふしぎなめぐりあわせ」なのかもしれません。けれども、やはりそれは神さまの計画のうちであり、恵みであったと思うのです。
ロールパン文庫で卵探しをした子どもも、いつか本当の復活に出合う日が来るかもしれません。それは私にとってははかり知れないことですし、文庫はそれを目的とした場所でもありません。でも、もし何十年か先、たったひとりにでもそんなことが起こるとしたら、それは遠い昔に私が「やかまし村」の本を開いた日、いえ、もっと昔にリンドグレーンがそのお話を書いた日、いえ、それよりももっともっとずっとさかのぼった大昔のある日に、神様がお決めになったことなのかもしれません。