ギリシア語で読む聖書 第9回 「神の霊感を受けた書物とは?」(セオプネフストス)

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

大阪聖書学院という小さな聖書学院にて奉職して四十五年ほどになりますが、この聖書(新約二十七巻、旧約三十九巻)が、世界の人々に与えた影響は計り知れません。そして、その聖書の主張や世界観に感化された人たちが、その時代時代において周りの人たちに与えた影響も、実に大きいものがあります。世界歴史の動向は、この聖書を抜きにしては考えられないほど、聖書は歴史と深い関係を有していると考えています。

さて、テモテへの手紙第二の3章16節で、パウロは若き伝道者テモテに対して「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と書き送っています。原文では

となっています。
この文章の構成はきわめてシンプルです。主語は、(「すべての聖書は」)です。実は、この文章には動詞が見当たらないのですが、明らかに、be動詞のが省略されています。そのbe動詞の主格補語に当たる形容詞が、(「神の息吹が込められている」)と(「役に立つ、有益な」)なのです。そして、何に対して有益かが、という前置詞が付されて四つ「~に対して、~のために」と書かれています。

このように、この文章自体は簡潔な文章なのですが、その意味や解釈となると、それほど簡単ではないようです。「聖書が神の霊感による」と聞くと、読者の中には、聖書記者は聖霊による直接的「霊感」を受け、聖書を書いた著者自身の人間的意志は文書の中に一切反映されておらず、著者は、まるで神の「手」や「筆」のように無意志的に用いられて書いたように考える人もいます。新共同訳では「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ……」と訳されています。
この議論は、ひとまず横に置いておいて、パウロがテモテに対して書いたこの文章に戻って、少し詳しく見てみましょう。特に、「聖書はすべて神の霊感によるもの」という最初の部分にスポットライトを当てて考えてみます。
まず、主語に当たるですが、は、本来「書いたもの」を意味する言葉です。しかし、新約聖書での使われ方では、もっぱら「聖書」を意味します。その「聖書」が「すべて神の霊感による」とは、どのような意味なのでしょうか。
先述しましたように、ここで使われている「神の霊感による」という表現は、動詞的表現ではありません。つまり、聖書を書いたとき、その聖書記者の心身の状態がどうであったかとか、どういう影響を受けて書いたかとかに関しては、一言も語っていないのです。ただ、聖書はすべてGod-breathed”「神の息吹が込められた」、だと形容詞を使って表現しているのです。
このという言葉ですが、この言葉は、(「神」)と、(「息を吹く」)という動詞に由来するという二つの言葉が複合化してできた言葉です。新約聖書では、ここ以外には使われていません。よく似た構成でできたギリシア語の形容詞に、「手で造られた」使徒7・48)があります。

畢竟するに、パウロはテモテに「聖書」の中には「神の息吹」が込められており、聖書のすべて一ページ、一ページを開くごとに、まるで神の息吹が頬に当たるかのように、聖書はGod-breathed であることを言おうとしたのです。聖書記者が聖霊によってどのような感化を受けたか、ということよりも、現に今、手にしている聖書の中には神の息吹がぎっしり詰まっている状態であることを言おうとしたのです。分かりやすい表現を用いれば、まるであんこがぎっしり詰まった「タイ焼き」のように、あるいは、「金太郎飴」のように、どこを切ってもあんこが滲み出るし、金太郎の顔が出てくるのです。
パウロが、テモテに「聖書はすべて神の霊感によるもの」と書いた日本語訳の背景には、そのようなパウロの意図が感ぜられます。