ギリシア語で読む聖書 第10回「天の御国が攻められている?」(ヴィアゼテ)
杉山世民
聖書の中には解釈が難しい箇所がいくつもあり、マタイの福音書11章12節もそのうちの一つと言えるでしょう。
このような解釈が困難な箇所では、翻訳される前の原文に当たると、解釈の助けになることがあります。もちろん、ギリシア語原文で読んだからといって、翻訳文で読むのに比べて、内容がすっかり変わるようなことはありません。ギリシア語原文で何か新しい発見をして、まるで「鬼の首」を取ったようにラッパを吹き鳴らす人がいますが、翻訳の作業には大変なエネルギーが割かれ、深く思慮されて慎重に訳されています。日本語で聖書を一気に読めることは感謝なことです。
とはいえ、やはり翻訳をする側の解釈が訳文に混入することは避けられません。しかも聖書のギリシア語の文法的な理解の判断が訳文に影響することも避けられません。マタイの福音書のこの箇所は、文法的理解の判断が翻訳に影響を与えるような事例と言っていいかもしれません。
本文を見てみましょう。
「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(新改訳2017)
「バプテスマのヨハネの時から今に至るで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(口語訳)
ギリシア語原文では、「天の御国は攻められている/天国は激しく襲われている」という部分は、
というギリシャ語です。
問題となるのは、この部分のという言葉です。本来、は「暴力的に押し入る」という意味を持つ言葉ですが、これを受動相と取るか、あるいは中動相と理解するかによって、解釈が違ってきます。このは、どちらとも取れる微妙なところなのです。A. T. Robertson
は、この箇所のが、受動相なのか中動相なのか境界線が非常に微妙な箇所の一つだと言います。
では、どのように解釈が変わるのか見てみましょう。
《受動相と取った場合》
W. Barclayは、これを受動相と取り、主イエスは次のように意味されたのではと考えます。「我が御国は、いつも暴力を被っている。いつも残忍な者たちは神の国を引き裂こうとしている。そして、それを奪い取り、破壊しようとする。だからきわめて熱心な者だけ、つまり、周りからの迫害に見合うだけの、いや、その迫害の暴力をさえ凌ぐ祈りの激しさが内にある者だけが、神の国に入ることができる。」つまり、主イエスは祈りの熱心よりも激しい迫害がやがて来ることを警告しておられると理解するのです。
《中動相と取った場合》
中動相とは、ギリシア語独特の相(voice)で、主体的動作を行いながら、その動作を何らかの形で自分の身に受けるような関係を言い表します。例えば、「天の御国が自ら激しく押し入る」というふうに能動的な意味になります。A. Deissmannは、これを中動相と取り、受動的にではなく能動的な意味と理解します。つまり、「天の支配、神の国そのものが罪人を救おうとして激しく迫り、暴力的に突入している」と考えます。D. Bivinも、これを能動的に理解し、ミカ書2章12?13節が背景にあると考えます。つまり「ちょうどダムに溜まった水は、ダムが壊れると激しく流れ出るように、今や、神の国が世界に流れ込んでいる。そして、神の国に入る者は自由を見いだす。神の国は、遠い未来のことではなく、バプテスマのヨハネ以来、その存在を開始している。」このように考えるのです。
結論的には、これを受動相に取って、人が神に敵対して神の国が奪い取られ破壊されようとしているという理解は、神の国が破壊されようとしていたのはバプテスマのヨハネ以前にもあったことですから、少し無理な感じがします。ルカの福音書16章16節でも同じが使われていますが、そこでは明らかに、この中動相が能動的意味で理解されています。マタイの福音書11章12節も能動的に捉えることができるのではないかと個人的には考えています。
神の国が暴力的に力ずくでこの世に突入しているとは、ユダヤ人たちの律法主義を考えると暴力的に見えるほど、キリストの福音によってこの世界に「神の恵み」が無理矢理入ってきたような感があるのもうなずけます。私の恩師、織田昭氏は「王なる神の御支配という出来事が激しい勢いで進み始めている」と理解しているのが興味深くあります。