孤独の中の友へ 〜信じても苦しい人に送る「片道書簡」 九回目 復讐なのか、愛なのか?

中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。

 

皆さん、お元気でしょうか?
そうしたほうがいいとわかっていても、できない時ってありますよね。今の私がそんな感じです。それなので、今日は“そのままの私”で、聖書をいつもとは違った角度から読んでみたいと思います。

聖書を愉快に読む!?
聖書に「右の頬を打たれたら、反対側の頬も差し出しなさい」とか、「迫害する者を憎むのではなく愛せ」というところがありますよね(マタイ五章参照)。「そんなことはできないから無理です」とまずは宣言してみます! そうすると、何だか少し違う感覚がやってきました。嫌いな人をがんばって愛そうとしているとつらくなります。でも、無理だということを受け入れてみたら、自分の外から違う空気が心に入ってきた感じがしたんですね。
聖書の言葉は、「こうしなきゃだめ」ということではなく、愛の現れであることに気づいたら、あきらめではなく、それでも何かが起きるかもしれない、神様が助けてくれるんじゃないか、という希望が心に広がってきたように感じました。
そこでもう一度、右の頬を打たれたら、反対側の頬も差し出しなさいという言葉について考えてみました。これは、「痛いけど、もう一度痛い思いをしなさい」ということではなく、「えーっ、まじで?」と思わせる非常識さを描いているのではないかと思ったんですよ。「そんなことしないでしょ。びっくりするよ」みたいな。自分がもし、嫌いな人の頬を叩いた後に、その人から「こっちもどうぞ」なんて言われたら、ビックリして「もういいし」と思っちゃうだろうなぁと。そして、その雰囲気で「まぁ、いいか」と怒りも薄くなって、心に光が照らされる気がしました。

復讐ではない方法で
後で、この聖書の箇所を学んだ時に発見したのですが、この当時は公平さを大切にしていました。だから、この聖句は「目には目を。歯には歯を」の後に出てくるわけですね。この言葉は目をやられたら、同じく目だけに復讐し、それ以上やらないようにという意味で使われているそうです。ここには公平な裁き方が示されているわけですね。でも、そこでイエス様は“それ以上の愛”をここで提示しているんですよ。
公平さからは愛は生まれないものです。だから、当時の人が聞いたこともないことを、大胆に、大げさに、あっと驚く形で表現しているわけです。右の頬を打たれたら、反対の頬も出しちゃいなさいみたいな。そうしたら、復讐心に囚われすぎていた心が少しは緩くなり、相手を赦せるだろうと、そして、自分の思いだけではなく、相手の思いも考えることができるようになるだろうということで、この言葉があるわけです。償いって、「1」やられたから「1」やり返せた、では収まらないですもんね。そこに、公平な行動だけではなく、相手を思いやる心を現すことをイエス様は教えてくれているんだろうと思いました。

大切なのは行動ではなく、思いやり
この後に一マイル行くことを強いられたら、一緒に二マイル行っちゃいな、みたいなところが出てきますよね。もうこうなったら、「えー、まじで!?」と相手を思わせちゃいましょうよ。自分にはできないと決めつけるのではなく、神様が共にいて、助け以上の奇跡を起こしてくれると信じてみる。それも悪くないなぁと思ってきました。
マタイの福音書五章には、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉が締めくくりとして出てきます。この「祈りなさい」という言葉は、ギリシア語で特別な中動態です。「祈り」という神様の臨在の下に自分を置きなさいというニュアンスです。
時に自分を敵とし、迫害してくる人がいるかもしれない。そのような人のために祝福を求めたり、赦したり、愛したりできないかもしれない。しかし、そのような自分の思いがいっぱいの心で行動し始めるのではなく、まず、祈りの中にある自分を見つめること。祈りとは、神様との愛の祈りの中に自分がいることを確認し、そして洗いざらいすべて話して、神様の思いを受け取る隙間を作ることなのかもしれません。そうすると神様の思いや、相手の立場になって考えることができるようになるかもしれないですね。