連載 ギリシア語で読む聖書第13回 「保証、手付金、しるし、質」(アラボン) #5
杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。
私たちが受けているイエス・キリストご自身の立派なわざによる救いそのものは、目で見ることはできません。しかし、そのキリストの救いのわざは、隠れたところでコソコソとなされたのではなく、当時の誰もが知りえるような事実として、人間の歴史の中で行われました。おそらく、ローマ帝国の為政者たちは、あまり深く考えることもなく、一人の政治犯として、法に則って淡々と十字架刑を執行したに相違ありません。もし、当時に写真付きの新聞などの報道誌があったならば、他の強盗たちと一緒にナザレのイエスという人物が十字架刑に処された、という記事が写真と共に掲載されていたのかもしれません。
この歴史的事実の中に込められた意味は、しかし、新聞を読むような形で理解できるものではありません。このイエス・キリストの救いのわざを理解するためには、人間が自然に有する知恵、理性、経験を超えた理解を必要とします。言うまでもないことですが、無限の広がりを持っておられる神を、有限の頭脳を持った人間が、そのまま理解することは不可能です。なぜなら、神は一人の人間の脳みその中にすっぽりと入ってしまわれるような方ではないからです。
そこで要求されるのが「信仰」なのです。これは人間の思想を超えた神の計画と言うことのできる知恵なのです。信仰と聞くと客観的根拠、視点を失った人間が、宗教的願望をきわめて主観的に維持しようとする「迷妄」と考える人がいますが、使徒パウロが説く「信仰」は、イエス・キリストと人格的に密着することによって起きる具体的な信頼、こころの平安という「客観的?」な確信に支えられています。
とはいえ、地上に生きる私たちの信仰は、不安定なものです。しかも、地上で体験するキリストの救いも限定的で不安定なものです。しかし、たとえ不安定なものであれ、イエス・キリストの約束を信じるとき、あるいは、イエス・キリストと人格的な密着、つながり、信頼関係が生じるとき、一つのことが起きると言います。それは聖霊が与えられるということです(使徒2・38参照)。
そして、パウロも、その聖霊について語ります。エペソ人への手紙1章13節です。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」この「証印を押される」とは、普通、認印を彫り込んだ指輪を書類に押し付けて封印することなのですが、ここでは、福音を聞いて信じる者に対して、聖霊によって「よし、間違いない!」と確認されることを意味しています。
さらにパウロは、続く14節で、この「聖霊」について説明します。
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」
ここには、キリストの救いに関して聖霊が果たす役割について見事に簡潔に語られています。このギリシア語原文は、もっと簡潔に訳すならば、「それは (つまり聖霊は)、相続財産の保証である」となります。
私たちが受ける「相続財産」とは、ちょうど、エジプトを出たイスラエルの民に約束された「カナンの地」のように、神がやがて私たちに与えてくださる救いの実体を意味しています。キリストによる救いこそが、私たちが相続する財産であって、聖霊は、その相続が絶対確かである、ということの「保証」であると言うのです。
この「保証」を意味する アラボンという言葉は、商業上の言葉で、手付金(down payment) を意味する言葉です。何かを買う時、その値段を支払う手持ちのお金がなかった場合など、「後で全額を支払うから、その品物を売らないで取っておいてほしい」と言って手付金を払い、その品物を得る保証権を取得するのです。つまり、私たちが、この地上でいただいている聖霊は、ほんの「一時金」であって、やがて、私たちが完全に受ける神の救い、遺産相続の保証金、手付金なのです。
実は、このアラボンという言葉は、ヘブル語由来の言葉で、そのヘブル語は、創世記38章17節にも出てきています。タマルの企みに陥ったユダは、支払いの一時金、手付金(アラボンpledge)として、大切な「印章やひも、杖」などを手渡したことが記されています。キリストの信仰という細い糸の向こう側には、莫大な神の相続が約束されているのです。