連載 孤独の中の友へ 〜信じても苦しい人に送る「片道書簡」十一回目 安堵感と解放感の違い

中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。

 

私は、左手の指がないという障害を持って生まれたので、自分の弱さを知られないように生きてきました。それなので、隠せてよかったとか、ばれなくてほっとしたという経験ばかりしてきました。そんな私なので、「ありのままの自分でいいよ」という解放感を受け取るのが難しかったのです。今日は、そこの葛藤のお話をしますね。

イエスさまにとって私たちはいつも一匹の羊
ルカの福音書一五章には、迷っている一匹の羊が出てきます。羊は転んだら自分で起き上がれない動物です。そんな羊が孤独に迷子になってしまいます。自分ではどうすることもできない、敵に襲われる可能性もある、不安しかない状況にいるわけです。そんな時にイエスさまに見つけてもらうのです。迷った羊はうれしかったはずです。イエスさまは見つけたら、「喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻」るとあります(5~6節)。ただ見つけただけではなく、担ぎ、居場所を提供し、おまえの居場所はここだよと言ってくれるのです。
十八歳でアメリカに家出し、私はとても孤独な人生を歩んでいました。誰も入れない心の奥に扉があって、本当の私はその中でうずくまっているような人生でした。でも、イエスさまは、その心の奥の扉を開け、来てくれたのです。イエスさまと出会う以前の私は、何かうまくできたら自分を認められると思って生きていました。だから、自分の障害は弱さで、克服しなくてはいけないことだったのです。でもイエスさまは、何もできない、弱いままの私のところに来て、「おまえを愛している」と言ってくれたのです。百匹の中の一匹の羊は、普通だったらいなくなったのがわからないくらいです。そんな小さな存在に対しても、イエスさまは大切に思い、価値を見出してくれるのです。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15・4)

安堵感と解放感の違いについて
イエスさまが、私を必要としてくれていることがわかった時、扉の奥でうずくまっていた自分が解放され、一世一代の挑戦に向かう勇気と、そして見つかった時の涙を体験する二重の喜びを得たような感覚でした。私の人生は、弱さを隠せてほっとすることの繰り返しでした。隠せて安堵する。ばれるかも……とひやひやする気持ちが終わるという感じです。やりたくない宿題を徹夜で終わらせたというような、自分の都合の安堵感です。でも、イエスさまに見つけてもらった時の平安は、解放される感があります。ここには確かな違いがあります。それは自分の殻が破れ、他者のためにベクトルが向くことかなと感じています。

外へ向く力は弱さから
私が二十代の時、吉祥寺の古着屋でバイヤーとして働いていた時のことです。私がお店番をしていると、ふらっと遊びに来る少年がいました。事情があり、家も家族もない少年でした。お店が終わってからご飯を食べさせてあげたり、夜中まで一緒に語り合ったりしたことがありました。どこかで彼のことが気になっている自分がいました。それは、おそらく私のように彼も孤独だったからだと思います。いつもは隠していた自分の弱さを、彼の前では隠す必要がなかったのです。それだけで、私は解放されました。弱さを隠すのではなく、弱さを通して他者に向かう私が動き出したのです。それは安堵感ではなく、解放感でした。
十数年後に彼と再会します。その時、彼はレストランのコックになっていました。「あの時はありがとう」と言われた時、とてもうれしかったのを覚えています。何か良いことをしようなんて特別思っていなかったのです。ただ、弱さを通して一緒にありのままでいられる時間を過ごしただけです。でも、それが彼の力になったと言われました。
人が居場所を見つけた時、自分の中にやり直せる力を見出せるんだと感じたのです。自分は弱いままですが、「居場所」には、イエスさまがいてくれるからです。「あの時一緒にいてくれたから今がある。今度は過去の自分がしてもらったように、誰かの居場所になれたらと思って料理をしたい」と彼は言いました。彼もまたイエスさまに見出された一匹の羊です。