連載 ギリシア語で読む聖書第14回 「深く憐れむ(憐れみ、内臓)」(スプランクニゾメ)

杉山世民

 

【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に精通。

 

前号では、「アラボン」というギリシア語そのものがヘブル語由来であると書きましたが、今回のスプランクニゾメは、ヘブル思想が新約聖書のギリシア語に深い影響を与えているギリシア語と言うことができます。この動詞形は、四福音書にしか出てきませんが、ほとんどの場合、主イエスが人間の哀れな、情けない、悲しい姿を見て、心の奥深くから同情し、深く憐れむといったような意味で使われています。
例えば、ルカの福音書7章13節では、ナインの町にいたやもめにとって、たった一人の息子が死に、葬りに出す女性の姿を見て、主イエスは「深くあわれみ」(新改訳2017)、「深い同情を寄せられ」(口語訳)、「憐れに思い」(新共同訳)、“…his heart went out to her.” (NIV) と、それぞれに訳出されています。実は、この言葉の中には「内臓、はらわた( 複数形)」といったような意味が、根底に横たわっています。七十人訳では、この言葉が「憐れみ(ラヘモット)」の訳語として用いられています(箴言12・10参照)。感情が深く宿るとされる内臓(心臓、腎臓など)が「深い憐れみ」を表す言葉として使われているのです。主イエスはナインの町で、たった一人の息子を失い、涙も涸れ、悲嘆にくれる女性の姿を見て、内臓が抉られるほどの憐れみと同情の念を抱かれたのです。
考えてみますと、主なる神は、人間をも創造され、支配される主です。被造物と創造主の関係は、ローマ人への手紙9章にもあるように、まったく次元の違う関係です。人間のありようによって、神の感情(?)が動かされるなど、本来は考えられないことです。神は、本質的に人間ではないのですから。しかし、主イエス・キリストは、神でありながら人間の姿をとられた方であり、ここに神の愛の本質を見ることができます。人間の破れた悲しい、情けない、哀れな姿に、神の心はまるで腸を抉られるように、動かされるのです。
このように、四福音書の中では、三つのたとえ話以外では、すべて主イエスが深い憐れみを持った時に、このスプランクニゾメ という言葉が使われています。例えば、主イエスは宣教のたびに病気を癒やし、飼う者のいない羊のように弱り果て、倒れている群衆を見て「深くあわれまれた」(マタイ9・36、14・14、15・32参照)。あるいは、エリコで道端に座っていた二人の盲人を深く憐れみ、癒やされました(マタイ20・34参照)。
四福音書の中での、この言葉の用例は、ほとんどの場合、主イエスが深く憐れまれたのですが、次の三つのたとえ話では、言葉の上では、主イエス以外が主語になっています。しかし、内容的には、主語は、どれも主イエスや主なる神を想起させています。一つは、王に莫大な借金をしていた人がいましたが、借金を返せなくなり、自分自身、妻子、全財産を売って返せと言われ、ひれ伏して哀願した僕を「かわいそうに思って」、主君は負債を免除してあげました(マタイ18・27参照)。
二つ目は、放蕩息子のたとえ話です。お父さんを捨てて自分の受ける相続財産をもらって都会に出て身を滅ぼし、ボロボロになって帰って来た我が子を見て、父親は「深い憐れみをもって」、その息子を抱いて受け入れました(ルカ15・20参照)。
三つ目は、善きサマリア人のたとえ話です。強盗に身ぐるみをはぎ取られ半殺しにされたまま、道路に放置された人を見て、祭司とレビ人は、神殿祭儀の務めに差し障りがあると考えたのか、半殺しの目に遭った人を見ても、憐れみの心を閉じて助けませんでした。しかし、ユダヤ人たちに嫌われていたサマリア人が、この人を見て「深くかわいそうに思い」助けたのでした(ルカ10・33参照)。これら三つのたとえ話では、すべてスプランクニゾメ という言葉が使われています。
考えてみますと、日本語にも「断腸の思い」といった表現があります。この言葉は「子を失い、悲しみのあまり死んだ母親の腸が細かくちぎれていた」という故事からできた表現のようですが、深い、深い身をよじるほどの感情が表現されている言葉です。スプランクニゾメという言葉の中にも、そのような腸がちぎれるくらいの深い感情が満ちあふれるほど、神が人に対して「憐れみの心」を持つというニュアンスが込められています。主イエス・キリストが、十字架の上で我が身を砕かれた事実の中には、一人息子を失い、腸がちぎれるほど悲しんだ、あの母親の心情に似た深い神の愛が示されているのです。