連載 京都のすみっこの小さなキリスト教書店にて 最終回 一年間のお付き合い、ありがとうございました。
CLCからしだね書店店長 坂岡恵
略歴
社会福祉法人ミッションからしだね、就労継続支援A・B型事業所からしだねワークス施設長。精神保健福祉士。社会福祉士。介護福祉士。2021年より、CLCからしだね書店店長。
「娘が二十歳になりました。さきほど、最後の養育費を振り込みました。」
からしだねワークス利用者の和夫さんから、そんなうれしい報告をいただきました。障害年金と福祉就労の工賃で暮らす和夫さんの生活に、そんなに余裕があるとは思えません。けれど和夫さんは、別れて暮らす娘さんにお金を送り続け、その務めを果たし終えたのです。
たくさんの本に囲まれながら、和夫さんのような障がいのある人たちといっしょに働いていると、福祉とは何か? 信仰とは何か? そして、その二つをつなげるものとは何か? 考えてしまいます。
福祉では「自立」「より良く生きるための支援」「当事者主体」などの言葉をたびたび使います。そしてそれらの言葉を看板として掲げるだけで、福祉事業所の立派な「理念」ができあがってしまいます。ところが、それらの「理念」を障がいのある一人の「人」に当てはめようとした途端、その人にとっての「自立」とは何か? その人にとっての「より良く生きる」とはどうあることなのか? その人の「主体」となる自己とは何なのか?といった深い悩みが生じます。
大きく掲げた「理念」がどんなに立派であっても、それが多様で個性豊かな一人の「人」の中でどんなふうに生きているのか、というところにまで落とし込まれなければ、そんな見せかけの「理念」は害悪でしかありません。だから「理念」と「人」をつなげる役割を担う者としての悩みは尽きないのです。「悩む」ということは、しんどくて時間がかかることです。でもそのしんどさと時間を、福祉の現場から取り去ってしまったら、もうそれは福祉ではなくなります。
社会福祉業界にも、グローバル化と合理化の波が押し寄せています。「社会福祉連携推進法人制度」といって、小さな社会福祉の事業所がこの制度を使って「連携」し、人事や経済を一括して行えば、より合理化できるし、資金不足も人材不足も解消できますよ、というわけです。
ですが、私は恐れています。そもそも、当事者や家族や彼らを取り巻く人たちが、目の前に生じた生活の現実問題をどうしたら解決できるかを考え、悩みながら始まった小さな行動こそが、今の社会福祉につながっていったのです。その働きは、愚直で素人臭くたどたどしいものだったと思います。でもそこには、一人ひとりの悩みにぴたっとあてはまる方法を探して思い悩む、細やかな心遣いがありました。小さく個性的で生き生きとした福祉事業所が点々と存在し、地域に根をはって、自立し、自律して豊かに活動する。そんな事業所どうしが、必要に応じて手を取り合い、協力し合う。それが本来の「連携」だと思うのですが、人事や経済の「連携」で、「楽になること」を目指して合理化されるとき、そこにはどうしても事業所間の力関係が生まれます。そんな「連携」が、小さな大切な働きの息の根を止めてしまうのではないかと、私はとても心配になるのです。
コロナ、高齢化、環境破壊、災害の頻発、宗教二世問題……、教会もまた、大きな転換期を迎えていると言われます。社会の中での教会の存在価値が問われ、「地域に仕える教会」とか「隣人愛の実践」とかいう言葉もあちこちで聞かれるようになりました。そんな言葉を掲げて何か行動を起こせば、なんとなくそれらしい気分にはなります。けれども、私の耳は、福祉の業界にもキリスト教界にも、何かのスローガンのようにはびこる「美しい言葉」にうんざりし、もう聞きたくないと拒否しているのです。
「これらのもっとも小さい者のうちの一人」がちゃんと大事にされているのか? その美しい言葉が、一人の「人」の中でどのように生かされることを期待しているのか? 「福祉サービスを与える対象」でも「救われるべき対象としての未信者たち」でもない一人の「人」の隣で、ともに生きる覚悟があるのか?
和夫さんの安堵した顔を見ながら、私は神さまが人に託された「務め」ということを思いました。人生の道すがらで大切な人と出会うこと、つかの間の幸せな時を過ごすこと、でもどうしてもうまくいかなくて別れること、一人で生きていくこと、幸せも悲しみもかみしめながら、自分ができる精一杯を尽くして生きること、それが「務めを果たす」ということなのかもしれません。福祉も信仰も、そんな一人ひとりの大切な「務め」のために、生きて働くものであってほしいと切に祈りながら、感謝しつつ、ペンを置きたいと思います。