連載 孤独の中の友へ 〜信じても苦しい人に送る「片道書簡」最終回 イエスさまからの贈り物
中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。
クリスマスにはプレゼントをもらいますけど、やっぱり一番は神さまからのプレゼントですよね。私たちは神さまから助け主である聖霊を与えられ、その聖霊によって導かれる人生を歩んでいるのですが、時にそれがどういうことかわからなくなることってありませんか。今日は、聖霊に導かれて歩む人生について考えたいと思います。
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満すことは決してありません」(ガラテヤ5・16)。
まず一緒に考えたいのが、霊と肉の比較です。肉と霊とが対立していると言われると、どっちをとればいいのかと考えます。肉の思いは捨てて霊に従いなさいと言われると、自分を否定されている気がして苦しくなります。でも神さまは、そんなことはされません。私たちは、“行動の先に”その結果としての自分の価値や信仰を見出そうとしてしまい、自分の計画を成功させることばかりを考えてしまう。そうすると、神さまが見えなくなってしまい、肉の思いに捕らわれてしまうわけです。そこには苦しさがあります。それなので、パウロはこのように言っているのです。
私たちは、少し捉え方を変えて、“聖霊の導き”を“行動の手前”にある「本当の自分」で受け取ってみたいと思います。「私たちの行動の先を助けてください」と思ってしまいがちですが、そうではなく、肉の思いを持つ私とあなたの存在意義を確かにしてくれるのが、聖霊の導きです。私とあなた自身が、神さまの計画の中にあることを覚えさせてくれる助けなのです。
そして聖霊の導きとは、肉の思いを、時にはこっちのほうだよと修正してくれたり、霊のものへと作り変えてくれることです。私たちに、何かできるから神に愛されているのではなく、神さまは「あなた」という存在を認め、あなたを必要とし、そしてあなたを通してでしか成し得ない計画を与えていることを、聖霊は教えてくれます。それを受け取ることこそが、聖霊の導きであり、私たちの信仰なのです。
「この二つ〔肉と御霊〕は互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります」(同17節)。
でも、私たちは“行動の手前”で神さまの愛を受け取るのが苦手だったりします。それなので、神さまの計画を見せてもらっているのに、自分の計画にしがみついてしまう時があるのです。そうなってしまうと、肉と霊の対立が起こってしまいます。そうならないために、霊に従う時の大切な二つのポイントをお話ししたいと思います。
武道家が竹刀を振り下ろす時の力は、がんばっても限界があるそうです。でも、振り下ろすだけではなく、体を降ろし、竹刀を回転させることを知ると力が増すというのです(養老猛司『運のつき』新潮社)。聖霊に従う時も、二段階で考えるのが大切です。
まず、私たちは、自分のしていることを手放すのではなく、自分自身を主の元に手放すことです。それは、どういうことかというと、行動の手前にある「自分」という存在が神さまの計画の中に生かされていることを受け取る、ということです。そのために、聖霊は私たちをいつも悔い改めへと導きます。時に、自分がすべての業を成しているように勘違いしてしまうような私に、「そうではなかった。私ではなく、神さまだった」と信仰を新たにする道です。肉の思いで心をいっぱいにしていると、逆に不自由さの奴隷のような時もあります。聖霊は、そんな私たちの心を知っていて、「大丈夫だよ。神さまはすべて知っているのだから、わたしを信じなさい」と言ってくれるのです。悔い改めとは、「ごめんなさい」というよりも、心を空にして聖霊の導くほうへ方向転換することです。そのために、持っているものを手放すのです。
次に、私たちは“新しい自分”を受け取るのです。それは神さまから始まる自分で、神さまの計画の中にある、主の管であることがわかってくるのです。そうすると、肉の自分が持つ計画を自分の方法で達成させようという思いから解放され、主の計画の一部として、これを“達成させる”のではなく、“主の形にしてもらおう”という思いになっていきます。その時に、必ず神さまは私たちの思いを受け取ってくれて、この思い以上の奇跡を起こしてくださるのです。これが霊の導きに従う私たちの、驚きに満ちた人生なのです。
この世の暗闇に、主の管である私たちは主の希望の光を照らしていきたいと思います。