352 時代を見る眼 「自分と違うもの」を受け入れる教会〔1〕 違いを受け入れられない私たち
キリスト者学生会(KGK) 副総主事
塚本良樹
私は2015年から2年間、米国ロサンゼルスの神学校に留学していました。留学中のあるとき、ふと気づかされたのは、自分はヨーロッパ系、アフリカ系、ヒスパニック系の方々といるよりも、アジア系つまり中国、韓国、ベトナム系の方々と一緒にいるほうが快適であるということでした。自分の第一言語である日本語を話す方々と一緒にいるほうが心地良いのは当然のことです。しかし、同じ英語を話しているにもかかわらず、見た目が似ている方々と一緒にいるほうが楽に感じているという事実にショックを受けたのです。
ペンテコステの日に、教会を誕生させた聖霊は、その日起こった出来事―多くの言語での賛美―のとおり、様々な言語、文化、民族の人々に順番に注がれていきます。最初はユダヤ人、しかも言語の異なるユダヤ人、次いでサマリア人、エチオピアの宦官のような異邦人の改宗者、コルネリウスのような神を畏れる異邦人、そしてアンティオキアやエペソにいる全くの異邦人に。聖霊の働きにより、教会は多様な人々が集まる場所となります。それゆえの差別、攻撃、神学論争など、様々なトラブルが起こっていったことが「使徒の働き」には描かれています。
若者言葉に「いつメン」という言葉があります。これは「いつものメンバー」という意味なのですが、人は似たような人と一緒にいるほうが快適です。逆に言えば、自分とは異なる言語、見た目、食べ物、あるいは年齢、人生経験、教理、礼拝スタイルの人々とともにいることは不快なのです。
多様な人々が教会に加わっていくことは本来であれば喜ばしいことです。しかし、罪ある私たちは、「自分と違うもの」を受け入れられず、ストレスを感じ、比較、偏見、恐れが引き起こされていきます。問題は、多くの場合、人はそれに無自覚であることです。無自覚であるとき、「違い」は深刻な危機を、感情的・破壊的な言動を生み出すことが多いのです。
福音派と呼ばれるクリスチャンであっても、様々なテーマで意見が異なることはこれまでもありました。しかし、SNSの拡大によって、「違い」がよく見えるようになりました。また、日本でも外国にルーツをもつ方々がさらに増えていくと言われます。だからこそ、私たちは心に留めるべきなのです。「自分と違うもの」を受け入れる教会の歩みは、違いを受け入れられない私たちの罪の現実に気づくことから始まることを。そして、その気づきもまた、聖霊が与えてくださることを。