新連載 グレーの中を泳ぐ 第1回 波乱万丈の人生の幕開け
髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。
死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた
はじめまして! 冬の風物詩「社会鍋」で知られる救世軍の士官(牧師)の髙畠恵子です。家族は同じく牧師の夫と子ども四人+ハムスターの「おもち」です。
私は救世軍の牧師同士で結婚した両親のもと、二歳上の兄、一つ違いの姉(生後五か月で召天)の下に、三人めの子どもとして群馬県桐生市で生まれました。すぐカッとなるけれど(脳の手術の後遺症で感情のコントロールが難しい)、これしかないという道を真っすぐに行き、曲がったことが大嫌いな父。じっとするのが苦手で自分よりも他者の必要に応えたいと走り回り好奇心旺盛で一途、しかし無駄話と無駄遣いはしない母。はちゃめちゃに元気で手先は不器用な兄。場の空気を読むのが苦手で心の声を口にしてしまい、そして、勉強は超苦手でしかし他人の感情を察するのは敏感な私。この四人家族は、今振り返ると全員が生きづらさを抱えながらそれに気づかず、大騒ぎしながら暮らしていたと思います。
そんな私は「二十歳になる頃には心が壊れて生きていないかもしれない」と感じながら思春期を過ごしました。そしてその予想どおり心は壊れ、長い長い混乱生活を過ごし、精神科に入院したこともあります。
その私がやがて、私が牧師の娘だということも、クリスチャンだということも、破天荒な性格であることも気にしない平和すぎる夫(後に他人に興味がない発達障害だと判明)に出会い、結婚します。ノンクリスチャンだから献身するはずもないと思って結婚したのに、夫は間もなく救われて召命を受け、献身へと導かれ夫婦で牧師になり、子どもが苦手なのに四人の子どもが与えられました。そして、牧師不足だから神様は私を八十歳くらいまでは大きな病気もさせずに奉仕をさせてくださると思っていたのに、四十七歳の時にまさかの膵臓がんになりました。
しかしがんになる三年前に霊的同伴に出会っていたおかげで、闘病期間に神様と私の関係が深まっていったこと、両親との関係が変化したこと、生きづらさを感じていたことから霊的な自由の世界へと導かれ深呼吸ができるようになったその霊的旅路を、皆様にお分かちできたらと思い、これから一年間、連載をさせていただくことになりました。
信仰を生きる人にはそれぞれに霊的旅路があります。私の旅路は特別珍しいものではなく、「がん」「生きづらさ」「両親との関係」「自分との和解」「神様との関係」「教会が好きだけど嫌い・嫌いだけど好き」「自分の本当の望みを知る」というテーマは、きっと多くの方々が抱えておられるものだと思うのです。この連載をお読みになり、そうだよね、違うかな、あ、そうかも……と、いろいろな感情が動くことで、また霊的同伴の働きを知ることで、神様との関係がさらに深みに進むきっかけになればと祈り願います。
母が私を身ごもっているとわかったのは、姉の死の直後でした。生後五か月の姉が亡くなった日、父は泊まりがけで遠方の教会員を訪ねていました。教会には高齢の教会員が来られ、母は姉を二階に寝かせたまま、一階の礼拝室でその方のお話を聞いていました。長い話がやっと終わって急いで二階に上がったところ、姉はすでに息をしていなかったそうです。両親はお互いを責めることはなく、むしろ、父は自分が遠くに訪問に行ったばかりに死なせた、母は自分が目を離したばかりに死なせたと、それぞれ自分を責めていたようです。
姉の葬儀を終えてまもなく、母は子宮筋腫の手術のために入院しました。そしてなんと手術の最中に、子宮の中に私がいることが分かり、術後、先生が興奮してその報告をされたそうです。
両親は神のあわれみと慰めに感謝して「この子が生まれたら神にささげます」と祈りました。私は予定日より四十日も早く生まれ、未熟児として一か月間保育器にいたそうです。両親は私を案じながらそれでも神に感謝して、この子は神からの恵みの子だと「恵子」と名づけました。
母は喜びと感謝でいっぱいでしたが、後にたった一度だけ口にしたのは、未熟児で生まれた私を姉と同じように死なせてはならないという「恐れ」の中で子育てをしたということでした。三歳まではどこに行くにもおんぶをしていたそうです。
私は心が壊れた時に「不安」と「恐れ」が受け入れられず、少しでも不安になると抗不安薬を過剰に摂取していましたが、この話を聞いた時、母の恐れの中で育てられたことが根底にあったのだと納得しました。
※霊的同伴
専門の訓練を受けた「霊的同伴者」に寄り添ってもらいながら、自分の人生に神様がどう働きかけ、何を語りかけてくださっているかということを振り返ること