353時代を見る眼 「自分と違うもの」を受け入れる教会〔2〕 聖霊は、危機を用いる
キリスト者学生会(KGK) 副総主事
塚本良樹
一般論として、人は「自分と違う」存在―言語、見た目、文化、あるいは年齢、教理、礼拝スタイルが異なる人々と一緒に過ごすとき、ストレスを感じるものです。比較、偏見、恐れが引き起こされることもあります。「自分と違う」と感じる人々と一緒にいることは不快なのです。だからこそ私たちは、無意識に「同じような」人たちと一緒にいるようにします。もちろん、同じような人たちとあえて一緒に過ごして癒やされることも、伝道することも大切です。しかし、それだけであれば、教会は広がっていかないのです。
使徒の働きにおいて、聖霊なる神は、教会の境界線を越え、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」拡大させました(1:8)。それにより、「自分と違う」キリスト者が教会に加わり、教会は不快な場所となっていきました。
教会が、サマリア人、異邦人にまで拡大していったのは、「危機」があったからでした。迫害により、強制的に「散らされ」なければ(使徒8:1〜4)、つまり危機がなければ、ずっと教会はエルサレムにとどまったままだったかもしれません。確かに、日本の教会も、教派を超えて最も協力することができたのは、東日本大震災という未曾有の危機のなかでした。
もちろん、危機は避けたいものです。避ける努力はすべきでしょう。しかし、それでも危機は起こるものです。そして、私たちに罪がある以上、極限の状況にまで置かれなければ、快適さを諦めてまで「自分と違うもの」を受け入れることは難しいように思うのです。
現在、日本の教会は危機的な状況にあります。これまでも危機はありました。しかし現在、多くの教会においては誰の目にも明らかな危機があります。教会に、次の世代を担うはずの若者たち、子どもたちがいません。若い牧師がいません。かつてよりも人口的には減っているとはいえ、教会の外にはたくさんの若者、子どもたちがいる以上、少子高齢化は言い訳になりません。
私たちの目の前には危機が存在しています。その危機を見て見ぬふりをするならば、私たちはこれまでと変わらず、不快さに耐えられず、境界線を越えられず、「自分と違うもの」を受け入れられないままでしょう。逆に、私たちが目の前の危機に真剣に目を向けるなら、「自分と違うもの」であっても謙遜に助けを求め、また愛をもって助けるようになるでしょう。聖霊なる神は、危機を用いて、教会を成熟させ、広げられるのです。