連載 まだまだ花咲きまっせ おせいさん、介護街道爆進中 第5回 寄り添う日々
俣木聖子
一九四四年生まれ。大阪府堺市在住。二〇〇〇年に夫の泰三氏が介護支援事業会社「シャローム」を創業したことを機に、その運営に携わる。現在は同社副会長。
「母さんが、入院したんです。急に具合が悪くなって、僕のことも『誰?』と言うんです」
千恵子さんの息子さんからの電話だ。
千恵子さんは今年八十七歳。十五年前にシャロームが老人ホーム「晴れる家一号館」をオープンした時のスタッフだった。
そのころ入居された和代さん、七十歳。ご主人を亡くされて、寂しさに耐え切れず、うつ病を発症した。自宅で一度首を吊った。幸い死は免れた。ご家族が心配されて、入居となった。
施設においても自死する危険性満杯だった。しかし看護師不足でもあった。おせいさんは、人手不足を補うためにも和代さんの見守りのためにも、施設に泊まり込んでいた。
若いころ看護師として働いていた千恵子さんは、その窮状を見かねて、一号館の看護師兼和代さんの見守り専門として、しぱし週四日泊まり込んで働いてくれた。
勤務の日には、姫路から堺までキャリーバッグをコロコロと引いてきた。和代さんにほとんど寄り添い、合間に他の入居者の健康を支えてくれた。信頼できる働きだった。
シャロームにとって初めての大きなホームの開設だった。みんなが心細い中で、千恵子さんが週四日泊まり込みでいてくれることに、スタッフたちは心丈夫だった。
和代さんは半年たっても、ご主人のことを思い出しては泣かれた。千恵子さんは、その寂しさに一緒に涙した。
「主人はアッという間に死んだ。それまでは元気そのものだったのに」
ご主人の死を受け入れることができなかった。でも、共に泣いてくれる千恵子さんの温かさに、徐々に和代さんの心に明かりがともってきた。千恵子さんのボランティア的働きがなければ、和代さんを死にたい病から守れたかどうか分からない。
千恵子さんは、屋上の畑に和代さんを連れ出して、得意の野菜の植え付けを一緒にした。和代さんも自宅にいたころ、ご主人と一緒に畑で野菜を作っていたから、土いじりは癒やしになった。
畑に新しい土を入れ、耕した。ふかふかの土にご主人の思い出を詰め込んだ。野菜や花が育つとともに、和代さんの気持ちにも新しい芽が育っていた。
千恵子さんが三日ぶりに出勤すると、和代さんが言った。
「私、昨日スタッフと屋上に行ったの。コスモスが屋上一面に色とりどりにいっぱい咲いてましたよ」
「まあ、嬉しい」
千恵子さんはコスモスが咲いたことも嬉しかったが、目を輝かせて報告する和代さんの姿に涙が出た。もう自死の危険からも遠のいたであろう。千恵子さんは安堵した。
千恵子さんは泊まり込みの勤務を一年してくれた。
それからも、ボランティアで一号館の屋上に季節ごとの花や野菜の苗を植えた。クリスマスになると、シュトーレンを数十本も焼いてプレゼントしてくれた。
おせいさんが難儀している時に助けてくれた、そんな大恩人の千恵子さんが病に倒れた。早速シャロームの元チャプレンのえみこ先生とお見舞いに行った。
「こんにちは」とえみこ先生が言った。千恵子さんは懐かしそうな顔つきでうなずいた。二十分の面会時間だから、ゆっくりしてはいられない。コロナになってから、なんでもせわしくって、疲れる。
「お祈りさせてくださいね」
えみこ先生が言った。おせいさんは千恵子さんの手を握った。千恵子さんはその手を自分の胸の上に置いた。
「アーメン」と、か細い声で千恵子さんが言った。
元気に三日前まで暮らしていた。朝起きたら、一変していたそうだ。千恵子さんの病は一進一退だという。
千恵子さんは七十歳で介護の現場に行き、昼夜分かたず和代さんに寄り添った。神様の御用だとの使命感があったからこそできた。
千恵子さんが泊まり込んで命を支えた和代さんは、今も元気で畑を楽しんでいる。千恵子さんの愛と祈りで、よみがえったのだ。
一号館に行き、和代さんと久しぶりに会った。
「和代さん、ここへ来られて十五年経ったね。千恵子さんのこと覚えてますか」
「私にずーとついてくれた人やね。あの人がいたから、私は元気になった。死にたいと思ってたけど、生きていて良かった。孫の顔も見られた。ありがとう」
生きていて良かった。千恵子さんに聞かせてあげたい。介護の原点は生き直しだ。