特集 バルメン宣言 九十年 一緒に読むこと、一緒に学ぶこと

一九三四年、ナチ政権下のドイツで「バルメン宣言」が採択されてから今年で九十年。当時の教会が直面した信仰告白の闘いは時を越え、海を越え、私たちにも迫ってくる。困難な時代を生きた信仰者たちが遺したものを今、あらためて見つめ直す。

 

日本同盟基督教団・市原平安教会牧師 朝岡勝

 

二〇二三年七月に出版された一冊の書物が大きな話題を呼びました。小野寺拓也・田野大輔著『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)という一二〇頁ほどのブックレットです。同書は出版後、約三か月で六刷、五万五千部、同年十一月には六万部を超え、同年末に発表された「第十四回 紀伊國屋じんぶん大賞2024」大賞を受賞したとのことですから、この種の本では異例のベストセラーと呼べるでしょう。
著者たちによると同書執筆のきっかけは、予備校で小論文を教える講師が自分の教え子にヒトラーのファンがいて、ナチスの政策を徹底的に肯定した小論を書き、その文体が完璧だったため添削に困ったというツイートをして話題になったことだそうです。
このような、いわゆる「歴史修正主義」は繰り返し登場してくるものです。昨今の私たちの社会でも、かつてであれば非常識とされた史実に基づかない発言、たとえば南京大虐殺や従軍慰安婦問題、「八紘一宇」のかけ声のもとにアジア諸国に行った植民地支配の数々を「自虐史観」とまとめて否定し、「かつての日本は良いこともした」と相対化する発言、あるいは在日外国人は特権を得ているという根拠のない主張によって民族差別とヘイトを繰り返す発言は後を絶ちません。ネット上に溢れる玉石混淆の情報の中から特定の傾向の情報に頻繁にアクセスすることで、自分が情報を取捨選択しているつもりがいつの間にか特定の情報の渦の中に巻き込まれ、陰謀論めいたものにはまり込む人々も生まれています。
そんな中、同書の著者たちは歴史を学ぶ上で重要な三つの層として「事実」、「解釈」、「意見」を挙げ、特に二番目の「解釈」を、「歴史研究が積み重ねてきた膨大な知見」の集成に基づくものとして重視します。これは歴史学では当然のことですが、歴史修正主義の過ちは、この「解釈」のプロセスが「事実」といとも簡単に分離され、「事実(と思いたいこと)」が「意見」に飛躍する点にあると言えるでしょう。そこから「意見」が無批判な主観によって既成事実化され、「事実」を学問的に吟味した「解釈」が否定されて、結果的に自分のフィルターを通して見えるものが「事実」となり、さらには事柄の「全体像」が背後に退けられ、事柄の「部分的な妥当性」が抽出されてしまうのです。
今年二月には、広島市長が二〇一二年から市職員の研修において「教育勅語」を引用していたことが問題となりました。これも今に始まった話でなく、この十年ほどの間に「教育勅語」について肯定的あるいは積極的な意見を口にする保守系議員が国会や地方議会でも増えてきています。ここにも「教育勅語」の果たした歴史事実、戦後に積み重ねられてきた「解釈」が跳び越えられて主観的な「意見」が主張され、また「教育勅語」がかつて果たした機能の全体像や文脈が抜け落ちて、そこで主張される内容が部分的につまみ取られて「良いことを言っているではないか」という意見が補強されるのです。
今日、日本の教会の一部にもある種の歴史修正主義が力を持ち始めていると感じます。そのような中で「バルメン宣言九十周年」を迎えた今年、日本の教会に何ができるのでしょうか。
「バルメン宣言」とは、一九三四年五月二十九日から三十一日にかけて、ドイツのヴッパータールにあるバルメン・ゲマルケ教会を会場に開かれた「第一回告白教会会議」において採択された、前文と六項目の本文からなる「宣言文」であり、「信仰告白」の言葉です。その前年の一九三三年にヒトラー率いるナチ党が政権を取り、一党独裁体制がつくり上げられつつありましたが、この政権の問題性をいち早く認識したマルティン・ニーメラー牧師たちが「牧師緊急同盟」を結成し、抵抗の備えが始まっていました。
そしてナチ政権の数々の政策、特にユダヤ人を巡る政策が、教会が沈黙することを許されない「信仰告白の事態」であると認識し、諸教会からの代表が集まって開かれたのが「第一回告白教会会議」であり、「バルメン宣言」は告白教会闘争の「闘いの狼煙」の役割を果たしたのです。
それから九十年を経た今、私はこのような時こそ教会が、「バルメン宣言」そのものを読み、その背景となった「歴史」を知り、その「解釈」に触れ、それが日本の教会の「今」と「これから」にどのような意味や意義を持ちうるか、自分たちの「意見」を教会の皆で論じ合うような営み、すなわち「一緒に読むこと」「一緒に学ぶこと」が必要ではないかと思います。
加えて「バルメン宣言」第一項が、教会が主イエス・キリストの御言葉のみに聴き従うことを鮮明に言い表していることを覚える時、そして「ドイツ告白教会闘争」の本質が「政治闘争」でなく「説教による闘い」であったことを思う時、教会の説教壇から「バルメン宣言」に基づく説教が語られることも重要なことではないかと考えます。
私は、かつて奉仕した教会の夕礼拝で「バルメン宣言による説教」を二度、行いました。一度目は「バルメン宣言」七十周年の二〇〇四年に九回にわたって、二度目は同八十周年の二〇一四年に十四回にわたって。それは宣言文を学ぶというよりも宣言の各項冒頭に掲げられる御言葉を説き明かすというもので、この時に大いに教えられたのが故雨宮栄一先生の『神の言葉はとこしえに保つ バルメン宣言による説教』(新教新書、一九八四年)でした。水曜祈祷会でも学び、皆で語り合うこともありました。二〇〇八年には大学生や若い方々と一年かけてバルメン宣言を学び、それがやがて『「バルメン宣言」を読む 告白に生きる信仰』(いのちのことば社、二〇一一年、増補改訂版二〇一八年)となりました。
「バルメン宣言」自体は短いものですが、そこに含蓄された聖書の理解、信仰の姿勢から学ぶものは多くあります。またその時代をテーマにした名著、オットー・ブルーダー『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』(新教新書、一九九九年)も合わせて読むと当時の教会の生き生きとした姿を学べるでしょう。そして「一緒に読むこと」「一緒に学ぶこと」が教会を強くする何よりの営みだと分かるはずです。

 

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ナチスが台頭してきた1930年代のドイツで、悪魔化した国家とそれに迎合した教会内勢力と闘うために生まれた「バルメン宣言」。その歴史的な背景を踏まえ、「信仰告白の事態」の様相を深める今の日本の教会へのメッセージを考える。増補改訂し、装いを新たに再登場。