いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第4回 “いのち”の名を呼ぶ

久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。

 

病院では、患者さんの名前を確認する場面がたくさんあります。子どもたちの病棟でも、処置や検査をするとき、お薬を飲むとき、お食事が配膳されるときなどに、名前を確認します。子どもたちの名前を呼ぶときには、「〇〇ちゃん」「〇〇くん」といった愛称で呼ぶ場面もあります。
入院している子どもたちにとって、おうちやお友だちから呼ばれている名前で自分のことを呼んでもらえることは、大きな安心に繋がっているように感じています。家族やお友だちに会えない心細い状況で、身体も痛かったりしんどかったりするなか、治療の不安や恐怖を抱えながら過ごしている子どもたちが、スタッフから笑顔で「〇〇ちゃん」「〇〇くん」と自分の名前を呼んでもらうことは、「私はあなたのことを見ていますよ。あなたのことを気にかけていますよ」というメッセージでもあるのだと私は思います。なぜなら、ベッドサイドで子どもたちの顔を見ながら名前を呼んでお話をしたり、病室の外から子どもたちの名前を呼んで手を振ったりする看護師さんたちや保育士さんたち、先生たちの表情は笑顔と優しさで満ちているからです。
そうしたスタッフの姿を通して、子どもたちの名前を呼ぶことも、そのいのちをいつくしむということであると私は教えてもらっています。
小さな赤ちゃんたちが入院しているNICU病棟では、保育器や、コットという新生児用の透明のキャリーベッドに赤ちゃんの「お名前プレート」が付けられています。赤ちゃんたちをお訪ねするときに、私はそこに書かれている名前を見て話しかけます。緊張感の高い病棟の中で、私がとても嬉しいと感じることの一つが、赤ちゃんに名前が授けられたことを確認するときです。
生まれてまもない赤ちゃんで、まだ名前が決まっていない場合、「お名前プレート」には、「ママの名前とベビー」と書かれています。そのような赤ちゃんと会うときは、「もうすぐお名前が決まるのかな? どんなお名前をもらうのかしら? 早くお名前が決まるといいね」と思いながら、そのお顔を見ます。
あるとき、赤ちゃんの名前を考え中だというお母さんが、「〇〇という名前にしようかなって思っているんですが、まだ決まってないんです」と教えてくださったことがありました。数日後、その赤ちゃんのコットには、お母さんが教えてくださったその名前がカードに書かれてあって、私はなんとも嬉しい気持ちになりました。
子どもたちのそばにいるお母さんたちとお話をしているときに、お子さんの名前の由来や名づけた理由を聞かせていただくことがあります。そのお話を聞くたびに、ご両親の深い思いに包まれてこの子はここでいのちを紡いでいるという、いのちに対する感動を私は覚えます。そしてそれとともに、ご両親がその思いと同じくらいの深い不安や心配を抱いておられることを感じます。そのときには、「神さま、どうか〇〇ちゃんのことをお守りください」と祈らずにはいられません。
「名前を呼ぶ」ということを考えると、イエスさまは生まれる前から名前が決まっていたことを思い起こします。イエスさまの母マリアに御使いが現れて、子を身ごもることが告げられました。「御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい』」(ルカ一・三〇、三一)。イエスさまは「インマヌエル」とも呼ばれています。それは、「神はわれわれと共におられる」という意味です。イエスさまの名前は、人の思いではなく神さまの思いによってつけられました。そして、イエスさまは、「神さまはあなたと共におられる」ことを、そのいのちを通して私たちに示すために生きられました。イエスさまはただひたすらに神の思いを生きてくださったと私は信じています。
人々に出会い、名前を呼び、痛みに触れ、しもべのようにへりくだって弟子たちの足を洗い、十字架を背負われたイエスさまが私たちに伝えたのは、「わたしはあなたと共にいます。あなたのことを気にかけています」という、変わることのない神さまのいつくしみです。その神さまの深いいつくしみにいのちは包まれていると私は信じます。神さまはその温かいまなざしとともに私たちの名前を大切に呼びながら、いのちの歩みを共にしてくださっている、そのことを信じて日々大切ないのちと向き合いたいと願っています。