特集 科学者はなぜ神を信じるのか 科学と信仰

時に相容れないものとされることがある「科学」と「キリスト教信仰」。しかし、聖書の神を信じ、科学の世界に身を置く研究者たちは多くいます。科学者として神と歩む生き方、その幸いについて伺いました。

 

青山学院大学 非常勤講師
日本福音キリスト教会連合・筑波キリスト教会 会員
中山良男

 

私は十八歳のイースターの季節に、日本ホーリネス教団東京中央教会で洗礼を受けました。それから間もなく、学校の先輩であり教会に導いてくれたある方が、一冊の本をプレゼントしてくださいました。ポール・リトル著『Know Why You Believe』(Scripture Press Publications, Inc.)という、表紙が緑色の英語の本でした。
この本は、私が知りたいと思っていたことを数多く取り上げていました。たとえば、イエス様の復活の真正性です。ペテロは十字架刑の前夜、イエス様を三度否定し、他の弟子たちも逃げ隠れました。そのような臆病な者たちがイエス様を宣べ伝える信仰の勇者に変えられました。復活が事実であること以外にこの劇的な変化を説明することはできません。また、聖書原本の内容が信頼性をもって現代まで正確に伝えられていることに驚きました。こうして同級生と三人で、礼拝後に教会堂で科学と信仰について学ぶ時が与えられました。
この学びを通して、キリスト教の確かさと信仰を科学的に考えることの重要性を理解しました。それとともに、完全には理解できない部分があることを認め、「隠されていることは主のものである」(申命29・29)と神様に委ねる姿勢で取り組んでいく大切さも知りました。

大学では、流体力学に興味を持ち、卒業研究では音より速く移動する物体周りの流れをテーマにしました。モデルロケットを超音速風洞に置いて、流れの様子を撮影し、その結果を理論と比較したところ両者は見事に一致しました。とても感動しました。ガリレオは「自然は数学の言葉で書かれている」と言いましたが、まさに自然は数学により記述されていると確信しました。
しかし、ロケット技術がミサイルのような武器開発にも使われるのであれば、このような研究を続けてもよいのかという疑問も生まれました。当時、エネルギー資源の枯渇が問題となり、省エネ技術に関する研究が重要視されていたので、大学院では効率よく燃料を燃やす研究に方向転換しました。科学技術を専門にするキリスト者として、技術の有用性と危険性を考え始めるきっかけになりました。
先日、映画『オッペンハイマー』を娘と自宅近くの映画館で観ました。オッペンハイマーは、第二次世界大戦末期に原爆を開発・製造する「マンハッタン計画」を主導した天才科学者です。彼は広島と長崎の惨状に深く苦悩し、戦後は水爆開発に反対しました。この映画を観て、大学院生の時に読んだ唐木順三の遺作『科学者の社会的責任についての覚え書』(筑摩書房)を思い出しました。
唐木は原爆を「絶対悪」と位置づけ、その開発に関わった科学者たちの責任を追及します。アインシュタインはこの計画には無関係でしたが、原爆開発に積極的であったことに対する自責の念が非常に大きく、「科学者や学者や教師にはならず、ブリキ職人か行商人になることを選ぶ」と後悔しました。
このエピソードを通じて、自分自身も「科学研究を一生の仕事にしてもいいのか?」と自問しました。その答えの一つは、「科学技術は諸刃の剣である」という論です。メスは人を生かし、刃物は人を殺す。技術は使い方次第である。説得力のある考え方ですが、これでは技術は中立で、功罪は技術を使う人の倫理に左右されることになります。科学者は社会的責任を放棄してもいいように感じられ、納得できませんでした。幸いなことに、クリスチャン大学院生を中心とする学び会に参加するようになり、その交わりの中でどの専門分野でも「見張り人」(エゼキエル3・17)としての働きが必要であることを知りました。科学研究を止めるのではなく、その道の専門家になり、他の人では入っていけない場所で見張り人になる。これが社会的責任を果たすことになるのではないかと考えるようになりました。
大学院を修了し、つくばにある国立研究所で研究者として歩む道に導かれました。火薬類などの爆発性物質を安全に保管・管理することも一つの仕事になりました。火薬類には、夏の夜空を彩る花火、ロケットの打ち上げを補助する固体推進薬、そして武器である爆弾が含まれます。まさに、人を生かし人を殺す技術の塊のような存在です。その安全性の基準は、十分信頼性のあるデータを要求します。陸上自衛隊の演習場で爆発実験を行い、蓄積されたデータにより安全な距離の基準が決定され、火薬類の法令が改訂されました。そのようなことを何度か経験しました。まさに「見張り人」としての仕事であったと思います。私は神様がこのような歩みを導いてくださったと信じています。そして、これからもすべてを神様に委ねて進んでいきたいと願っています。

研究者として歩む中、大学の非常勤講師として「キリスト教と自然科学」の授業を担当する機会が与えられました。アリスター・マクグラス著『科学と宗教』(教文館)を教科書に選び、授業を準備し、学生たちに講義し、科学と宗教の複雑な関係性の理解に努めました。
授業に使用したもう一冊の本として、素粒子物理学者であり、後に司祭になったジョン・ポーキングホーンの著作『科学者は神を信じられるか』(講談社)があります。著者は、科学において信じることの意味を力説します。たとえば、ミクロな世界の説明にクォークと呼ばれる微粒子を仮定すると、物理の実験結果をうまく説明できます。彼はこの事実を「クォークの実在を信じる」と表現します。同様に「ビッグバンを信じ、生物進化を信じる」と語ります。宇宙論と進化論は証拠が「断片的」ですので、中世の神学者アンセルムスの言葉を引用すれば、「理解するために信じる」ことが不可欠なのです。クリスチャン科学者は信仰をもってこの世界を調べ、神の創造の御業を明らかにする働きに招かれているように思います。
終わりに、ポール・リトルの著作にあった聖句を紹介します。
「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3・15)