特集 科学=神様からのプレゼントを開ける作業

恵泉女学園中学・高等学校 理科教諭
金山達成

 

「金山先生は科学が専門なのに、どうして神様を信じているんですか?」
生徒からたまに投げかけられる質問だ。大学生の頃にも、同期や教授から、似たような質問を受けたことがある。なるほど、「科学」と「宗教」、これらはそれぞれ相容れないものだ、と考えられているのだろう。しかし、本当にそうだろうか。
二十世紀のノーベル賞受賞者の中で、クリスチャンまたはキリスト教的背景を持つ人の占める割合は、化学賞・物理学賞・医学賞いずれも六〇%を超えていると言われる(Baruch A. Shalev, 100 Hundred Years of Nobel Prizes, Atlantic Publishers & Dist, 2003)。クリスチャンが科学を研究することも、科学者が信仰をもつことも、決してめずらしいことではない。では、科学と宗教、理性と信仰、これらはどのように調和するのだろうか。

私が自ら信仰を告白して洗礼を受けたのは、高校一年生のことである。両親ともクリスチャンの家庭に育ったので、キリスト教的な文化や価値観は身近であったが、反抗期もあって両親との関係が悪かったことから、「親が信じている神様なんて絶対に信じない!」と心に決めていた。
そんな私の価値観が変わったのは、高校一年生のときだ。化学の授業で、「元素周期表」というものを習った。最初は、「水兵リーベ僕の船……」と機械的に暗記するだけだったが、授業を通して少しずつ元素や原子というものが分かってきた。
「この世界に存在するすべての物体は、『原子』という約百二十種類の小さな粒の組み合わせでできているんだ。たとえば、私たち人間のからだは、炭素、酸素、水素、窒素などがたくさん組み合わさってできているんだよ。」
その説明を聞いて衝撃を受けた。この世界には、さまざまな物体が存在する。大きいものも小さいものも、硬いものも柔らかいものも、生命をもって動くもの、いろいろな色のもの、実に多種多様だ。それらすべてが、たった百二十種類の原子の組み合わせでできているのだという。しかも、原子のつくりはすべて似ている。中心に陽子と中性子があり、そのまわりに電子があり……という具合である。
たとえば、ダイヤモンドの結晶と空気中の酸素は、見た目も性質も大きく異なる。これだけ違いがあるのだから、基本となる構成物にも大きな違いがあってよさそうなものである。ところが、ダイヤモンドの結晶は炭素原子から、空気中の窒素は窒素原子からできている。そして、どちらも原子であるから、当然そのつくりはよく似ている(下図参照)。

同じ画家が描いた作品は、どことなく似ている。「これはモネの作品だな」とか、「これはピカソが描いたのだろう」とか、推測することができる。使う画材や、筆のタッチなどが似ているのだろう。同様のことは、音楽、建築、文学、さまざまな分野について言える。作者が同じであれば、作品は似るのだ。
この世界に存在する多種多様な物体はすべて、原子という粒の組み合わせでできている。とするならば、この世界という作品を創ったデザイナーはただお一人なのではないか。これが、私が神様の存在を強く実感し、洗礼を受けることを決心したきっかけだ。
そして、科学を研究すれば、この世界の謎を解き明かすことができる、つまり、この世界を創られた神様のことをさらによく知ることができるのでは、と考え、理系の進路へ進むことに決めた。

人類は昔から、人間の頭で理解できないこと、論理的に説明できないことは、すべて神が原因だと考えてきた。身近な例を挙げるなら、「雨」がそうである。雨はいつ降って止むか。雨はどのようにして降るのか。すべては神が決めてなすことだ、という具合である。だからこそ、雨乞いという文化があった。ところが現代では、雲ができて雨が降る原理や、天気の移り変わり方などについては、中学校の教科書にも載っており、人間の頭で簡単に理解することができる。科学技術の進歩による成果である。
さてそれでは、雨が降ることに神は関わっていなかった、ということなのであろうか。科学がさまざまなことを解明することで、以前は認められていた神の存在は排除されるべきなのであろうか。
私は、そのように考える必要はないと思っている。雨の降るしくみが解明されたなら、「神様はこんなに素晴らしい方法で雨を降らせてくださっていたのか!」と感動することができる。ある現象が人間の頭で理解できたからといって、神様の存在を排除したり、神様のご性質を低く見積もったりするべきではない。むしろ、神様の御業をこの知性で嚙みしめることができるという幸いに感謝する気持ちを大切にしたいと思うのだ。この世界で見られる科学現象は、人間の頭で理解できたとしても、人間が同様に再現できるものは少ない。「神様の御業」というマジックのタネを覗き知ることができるのが、科学を学ぶ者の喜びであり特権であろう。

私が授業をするときに常に意識し、生徒にも伝えていることであるが、科学の学びは、「プレゼントを開ける作業」と同じようにわくわくするものである。誰かからプレゼントをもらった時、それだけでも嬉しく感じるだろう。自分のためにプレゼントを用意してくれた、その事実にまず感動する。しかし、プレゼントを開ける作業は、より一層わくわくする時間ではないだろうか。先ほどの例を用いるなら、「雨が降ること」は神様からのプレゼントであり、「雨が降るしくみを解明すること」は神様からのプレゼントを開ける作業である。
私の中では、「科学」と「宗教」は全く矛盾しない。むしろ、神様のもとへ歩み寄っていくための両足のような関係である。右足と左足に優劣はない。片方の足が一歩踏み出すことで、もう片方の足が踏み出せる。その繰り返しであり、お互いに支え合い補い合う関係だ。私が普段関わっている、キリスト教主義学校の生徒たちにも、教会の子どもたちにも、科学の目を通して神様の偉大さに触れるという体験をしてほしいと切に願っている。