いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第6回 “いのち”のそばに祈り
久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。
先日、病棟で看護師さんと話していると、このようなことを言われました。「久保さんってお祈りができるからいいですね。私たちはこうして、ここで関われる子どもたちのためには医療を提供できるけど、遠くにいる子どもたちには何もしてあげられない。けど、お祈りって遠く離れている子どもたちのためにもできるでしょ? そう思うと、クリスチャンの久保さんがお祈りできるってうらやましいなって思って」と。
その看護師さんの言葉を聞いて、私はハッとさせられたというか、なるほど、そんなふうに思ってもらえるのかとうれしく感じました。確かに日々、病院でがんばっている子どもたちのことを祈っています。ですが、医療現場の中にいて私が赤ちゃんや子どもたちのためにできることは、祈ることしかないと切なく感じることが少なくない毎日を過ごしていたので、看護師さんのその言葉は私にとってとても大きな励ましと支えになりました。そして、退院した子どもたちや、通院しながらがんばっている子どもたちのためにも祈ることができるのは、神さまが与えてくださった特権なのだとあらためて気づきました。
私たちは、様々な場面でお祈りをします。神さまを信じている人も、神さまのことをあまり知らない人も、生きるなかで、人を超える存在に祈りたいと願うことが必ずあると思います。特に、愛する存在のいのちと向き合う時に人は祈るのではないでしょうか。ベッドサイドで赤ちゃんの手を握りながら、その手をご自分の頬や口にくっつけながら赤ちゃんのお顔を見つめるお母さんの姿は、まさに祈る者の姿そのものです。お子さんの背中や足や手をさすりながら、「こうしてさすりながら、この子の身体の中の悪いものが私の中に入ってきますようにって祈っているんです」と話されるご家族の思いは深い祈りと愛情に満ちています。
また、「赤ちゃんたちの小さな身体を両手で包みながら、『あ~神さま』って思うことがあるのよ」と話してくれる看護師さんのこころも神さまへの祈りだと思います。以前ある看護師さんが言われました。「私はクリスチャンではないからお祈りはできないけど、それでも、祈るような気持ちで患者さんのケアをさせていただいています」と。看護師さんのこころは、まさに祈りのこころだと私はその時感じました。
このように、いのちのそばには祈りがあるのです。大切なだれかのために祈ることは、静かで地味な行為のように見えるかもしれませんが、その祈りは確かにいのちを支えているのだと、子どもたちやご家族、スタッフの姿をとおして私は強く感じています。いのちはその人の身体の中にだけとどまるものではなく、人との関わりの中で豊かに広がり、深められながらお互いを支えるのだと思います。
それでも、祈りや願いがかなわないことを私たちは体験します。いのちが傷つくとき、愛する存在のいのちを手放さなければならないとき、私たちは「神さま、どうしてですか?」と悔しくて悲しくて怒りを覚えることがあります。そのような時、私たちは祈れなくなります。時には神さまに祈りたくないと感じることすらあります。そのような葛藤のなかで私がいつも思い出すのが、ある患者さんの言葉とイエスさまの叫びです。ある時、キリスト教病院で長く入退院を繰り返している患者さんが言われました。「イエスさまはなんで十字架にかからんとあかんかってんやろ? 天の軍勢が来て助けることだって、きっとできたやろ? でも、なんで?」と。私たちはイエスさまの十字架上の祈りについて話しました。十字架上でイエスさまは叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と(マルコ15・34)。十字架をとおしてイエスさまは私たちが生きるなかで経験する「神さま、どうして?」をいのちがけで背負ってくださったのだということ、イエスさまはいのちをかけて私たちに生きてほしいと願っているからだということ、そして、イエスさまは私たちの悔しさも悲しさも怒りも知って共に生きてくださるということを話し合いました。この時の患者さんとの会話とイエスさまの叫びは、私が葛藤のなかで祈れなくなる時に心に響いてくる大切な言葉です。
私たちはいのちのそばで神さまに祈り、神さまに叫びます。その私たちの思いをすべて引き受けて、イエスさまが私たちのいのちのそばにいてくださることを信じて歩む者でありたいと願います。