連載 まだまだ花咲きまっせ おせいさん、介護街道爆進中 第12回 二十五年間突っ走った
俣木聖子
一九四四年生まれ。大阪府堺市在住。二〇〇〇年に夫の泰三氏が介護支援事業会社「シャローム」を創業したことを機に、その運営に携わる。現在は同社副会長。
二十五年間突っ走った。夫五十七歳、おせいさん五十五歳の時から、今年八十二歳と八十歳になるまで。
まだシャロームの現役でいるなんて、めでたい。シャロームがここまで持ちこたえられたのは、神様の憐れみだと、思うことが何度もあった。
デイサービスを始めて一年後、主力スタッフだった熱血漢さんが退職した。このスタッフとは生涯シャロームを一緒に背負うと思っていた。
彼は別のスタッフと意見が合わず、貫一お宮の物語みたいに、「僕をとるか彼を取るか、はっきりしてください」と会長に迫った。彼がそう迫る気持ちはよく分かった。
「どちらもシャロームに必要だ」会長の答えだった。
彼は即刻退職した。おせいさんは、熱血漢さんに残ってほしかった。彼は自分を犠牲にして、シャロームが軌道に乗るようにと頑張ってくれた。朝早くから、夜遅くまで、自分の野望など一点もなく働いた。あの純真な働きを思い返すと、主に仕える人とは彼のような人だと思った。
彼が抜けたら、デイはやれんなあと思った。
「誰が辞めてもやれる」会長は動じず言った。
「やっていかなあかんのや」
彼に頼りっぱなしだったスタッフたちはしんどそうだ。やらなければと踏ん張った。
今の本社の下の階でデイサービスをしていた。二階が事務所になっていた。彼がいないデイはどうなっているのか、心配した会長が降りてきた。
「皆様、ご無沙汰しております。シャロームの三波春夫でございます。『ちゃんちきおけさ』を歌わせていただきます。手拍子をよろしくお願いします」
にぎやかに、手拍子が始まった。会長は当時いい声で声量もあった。ヤンヤの喝采で盛り上がった。会長がノンクリスチャン時代に仕込んだ演歌がお年寄りに大うけだ。
会社に請求書が次々と届いた。払うお金はなかった。シャロームは倒産か? その時に一千万円の懸賞付きのエッセイの募集が新聞に載った。おせいさんは、神様に祈りながら書いた。
その年の年末に電話がかかってきた。
「お書きになった作品が大賞になりました」
思わずおせいさんは聞いた。
「一千万いただけるんですか?」
「はい、そうです」夢のようだった。
東京で表彰式があった。嵐の相葉君もそこにいた。おせいさんの書いたエッセイがテレビドラマ化され、おせいさんの息子役が相葉君だった。
実は大賞にすんなりと決まったわけではなかった。ある方と審査員の票が分かれ、半分ずつ賞金は分けましょうとなりかけていた。しかし、そこで待ったが入ったそうな。
「ここの会社はどうもお金がなさそうだし、俣木さんは年だし、こんな機会はもう来ないかも。次の方はまだ若いし、筆力もあるから、チャンスは来るでしょう。俣木さんにしましょう」
審査委員長の鶴の一声がシャロームを倒産から救った。
主婦だったおせいさんに経営者としての重荷が乗った。波瀾万丈の人生が始まった。いつも真剣勝負だった。気の休まる時がなかった。しかし、ユーモアが傍らにあった。夫が運んできた。夫のユーモアと信仰がおせいさんの支えであった。神様は、なくてならぬものは傍らに置いてくださっている。
シャロームの労苦は、今の会社の肥やしになっている。
おせいさんは八十歳のスタートを切った。まだ介護現場で働ける。
家に帰りたいさんの傍で、昔の幼き日の思い出を聞いてみよう。
何十回も同じ話をする人の傍で、初めて聞くようにびっくりして聞いてあげよう。
認知症さんのつじつまの合わない話にも傍で、手をつないで一緒に大笑いをしよう。
便が出ないでトイレで頑張っている便秘さんの傍で、お腹のマッサージをしよう。
あと少しの命しか残されていない方の傍で祈って、イエスさまにバトンタッチだ。
現場のスタッフにありがとうの微笑みを返そう。
疲れているスタッフにどら焼きを渡してあげよう。
夫と経営のことでよく戦った。苦労も分かち合った。夫一人でもおせいさん一人でもできなかった。相手より自分を大切にするという、出来の悪い二人を出会わせた神様は、上首尾だったとほくそ笑んでおられるかもしれない。