いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第7回 喜ばれるいのち
久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。
ある時、病棟で赤ちゃんに話しかけていると、薬剤師さんに声をかけられました。
「赤ちゃんたちを見ていると、いのちを感じますよね。いのちってすごいなぁって思わされます。私は赤ちゃんたちから元気をもらうんです」と。ほんとうにそうだなぁと思いました。「ほんとうに。赤ちゃんの存在そのものがいのちですよね。私も赤ちゃんたちからいのちを教えてもらっています」とお話ししました。赤ちゃんたちのいのちに対する喜びを分かち合えたように感じて、私はとてもうれしくなりました。
医療の場では、患者さんもご家族も、スタッフの私たちも、いのちと向き合いながら深い苦しみを体験したり、悲しみや悔しさを覚えたりすることが少なくありません。でも、同時に喜びを体験することも多いのです。小児医療の場では特にかもしれませんが、小さな赤ちゃんたちや子どもたちを見つめるご家族もスタッフも、目の前にいるそのいのちを喜んでいます。お母さんが赤ちゃんを抱っこして話しかけている時も、お父さんが赤ちゃんの小さな身体に大きな手を置いて見つめている時も、看護師さんが赤ちゃんにミルクを飲ませてあげている時も、そこにはいのちを喜ぶ者のまなざしがあります。
また、お話ができるお子さんとのやりとりは緊張感の高い医療現場に、笑顔と笑いを起こしてくれます。時には、子どもたちのことばに私たち大人が救われることもあります。これも、いのちを喜ぶことだと私は感じています。そして、会話をとおしてのコミュニケーションは難しいお子さんとのやりとりでも、時折見せてくれる笑顔や涙、大きな反応や小さな反応をとおして、スタッフは喜びを感じています。医療的ケアが必要なお子さんと多く関わっているスタッフたちは、一人一人のお子さんのさまざまな反応を目だけではなく、触れる手を通じて繊細に感じ取りながら、ケアを行っています。そして、みんな子どもたちにたくさん話しかけています。そのようなスタッフと子どもたちとのやりとりをとおして私は、いのちを喜ぶ者の姿を教えてもらっています。
赤ちゃんたちや子どもたちと過ごすなかで教えられることは、‶いのちは喜ばれる〟ということです。人は喜ばれる存在としていのちを与えられ、生きるのだと思わされます。神さまに喜ばれていのちを与えられた私たちは、生きるなかでさまざまな体験をし、変化を経験します。
以前、ある患者さんがこのように言われました。「私は今まで生きてきたなかでたくさん鎧を身に着けてきました。でも、ここで神さまに出会って、神さまがその鎧を一つ一つ剝がしてくれてるんかな」と。人は生きるなかで鎧を身につけながら生きるのかもしれません。でも、その鎧の中のいのちは生まれてから変わることなく、‶喜ばれるいのち〟なのです。神さまに与えられたいのちは、何によっても傷つけられることはないし、古びていくこともないのだと私は思います。私たちのいのちは神さまによって与えられたのですから、人のものさしで測られて意味や価値が見いだされるのではなくて、いのちはどんな時にも神さまの深い喜びの中に置かれていると信じているからです。
イエス様の旅の途中、人々が子どもたちをイエス様に触れていただこうと連れてきました。でも、弟子たちがそれを叱りました。その弟子たちの行為にイエスさまは怒り、言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」そして、子どもたちを抱き、子どもたちの上に手を置いて祝福されました(マルコ10・14~16)。
イエスさまは、子どもたちを喜んで迎え入れ、抱きしめて祝福されました。当時、子どもは人々からは価値の低い存在だと思われていたようです。働き手として期待が持てないうえに養っていかなければならない存在であった子どもは、喜ばれない存在として扱われていたのかもしれません。でも、イエスさまは子どもたちがそばに来てくれたことを喜び、きっと、愛おしくてギューッと抱きしめずにはおられなかったのではないでしょうか。イエスさまは彼らのいのちを心から喜ばれたのです。イエスさまにとって、子どもも大人も、一人一人のいのちが愛おしくて、喜びなのです。
この神さまによっていのちは喜ばれ、抱きしめられている。そのことを信じて、日々出会ういのちや自分のいのちとも向き合い、その喜びを共に分かち合いたいと願います。