特集 祈ること、その幸い 霊想書といのちのことば社
いのちのことば社 元編集者 鴻海 誠
「霊想」ということばは、キリスト教会のなかでもあまりなじみのないことばかもしれません。むしろ英語でdevotionやdevotionalといったほうが理解しやすい方が多いでしょう。このディボーション(神との日々の交わり)を深める書を、いのちのことば社は熱心に出版してきた歴史があります。
古くからの日本のキリスト教出版社は、おもに牧師や教職者向けに神学書、説教集を出す傾向にありましたが、戦後生まれたいのちのことば社の出す本は、信徒向けに霊想書や証し、信仰の実践を勧めるものが大半を占めていました。これは一九七〇~九〇年代において、信徒の成長、日本の福音派教会の広がりに大きな影響を与えたと思います。
私は一九七五年に入社し、書籍の編集を行う出版部に配属になってすぐ、新刊・再版本の広告コピーを書く仕事を任じられましたが、霊想書のコピーを書くのに苦労したことを覚えています。たとえば、メーベル・フランシス『聖霊に満たされてから』という薄い本を読んで、その書のどこに魅力があるのか、戸惑いました。「自我に死になさい」「神に明け渡しなさい」という言い回し自体が聞きなれないもので、自分の育った教会ではそうした信仰の精神は教えられませんでした。そのメッセージをわがこととして受け止められるようになったのは、二十年も三十年も後になってからでした。
当時の代表的な霊想書に、『朝ごとに』『夕ごとに』(C・H・スポルジョン)、『内住のキリスト』(A・B・シンプソン)、『山頂をめざして』(L・B・カウマン)、『信仰の高嶺をめざして』(F・B・マイアー)、『謙遜』(アンドリュー・マーレ―)などがあげられます〔※一部の書籍をニュークラシック・シリーズとして新版販売中〕。いずれも、十九、二十世紀の欧米のリバイバリズムの流れをくむ説教者によるものです。その霊性が日本の教会、クリスチャンにもたらされたのはまさに主の恵みでしょう。いのちのことば社が出版社として担わされてきた役割を改めて覚えさせられます。
それとともに、私自身がみことばと祈りによって主との交わりにあずかりながら、日々生かされていることにただただ感謝するばかりです。