連載 グレーの中を泳ぐ 第十三回 グレーの美しさ

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

霊的同伴を受けている中で何度も感じたのは、「不完全燃焼」でした。霊的に悩んでいることについて、同伴の時間内で答えが出ない、与えられない。努力してなんとか確保した貴重な時間なのに、もったいない、と思うことがありました。しかしやがて、霊的旅路を歩むとは、解決や答えを得て、すっきりするためのものではないことに気づきました。 
両親の介護、子育て、自分の健康問題、任命責任が重くのしかかり、突発的なことだらけで、毎日が厄介で面倒くさくて時間のかかることばかりです。思っていたこととも願っていたことともちがうけれど、やらなければいけないことをこなしていくだけで一日が終わります。
霊的旅路とは日常のゴタゴタとは無縁で、主と共に平坦で真っすぐな小道を優雅に歩むイメージを持っていました。しかしそうではなくて、日々の生活の、最も身近な人との厄介で面倒で時間のかかる関わりや、答えが出ないグレーの中に佇んでおられるキリストを見る歩みなのだと気づきました。そして、その時々に起こる出来事や問題で心がいっぱいになり、キリストがどこにおられるのかわからなくなった時、共に歩んでくれる霊的同伴者に話す中でキリストの光のほうに、「こっち、こっち」と呼び戻されることができたと思います。
そのような毎月の霊的同伴を数年重ねる中で、自然といつの間にか、それまで手放せないと思い込んでいたことを、そっと主にお渡ししていたなと思います。たとえば、「いつでも誰かの役に立てていなければならない」とか、「聖書に書いてあることは、すべてちゃんと守らなければいけないのに、そうできていない」という罪悪感とか、「こうあるべき、~でなければならない」という不健全な恐れや決めつけが少しずつ和らいでいっていました。
神とは私を裁き、責め、追い込む方のようなイメージを持っていましたが、そうではなく、あたたかく、慈しんでくださる方で、気前が良く、私に何かを押しつけたり無理強いしたりしない、安心で安全なお方なのだということを、心と体と霊で感じられるようになっていきました。
それまでの私は、信じるか信じないか、教会に来ているか来ていないか、ゼロか百か、味方か敵か、何でも白黒つけて、自分も他者も苦しめていました。しかし白か黒かわからないグレーの世界があって、そのグレーにも濃淡があることに気づきました。それは不安に感じることだけれども、グレーの中に佇むキリストがおられることにも気づいたのです。がんの再発や転移の恐怖の中、具合が悪く予定が立たないような日があると、以前だったら「今日はゼロの日。神の恵みはなかった」と考えていました。でも、キリストが共にいてくださるグレーという、中間の美しさがあることを知ったのです。
また、霊的同伴を受けるようになってから、レント(四旬節)の過ごし方も変化しました。それまではどちらかというと受難日よりも、イースターの日曜日をどれだけ喜びと感謝で盛り上げようかと考えながら準備していたと思います。ところが命の危機に直面した時からイエス様のご受難が迫り、そのことを思い巡らす時間が多くなりました。がんの手術でおなかを三十センチ切った時の痛みは、釘を打たれ、そこに体重がかかるイエスの痛みを想像させ、イエスの十字架上の「なぜお見捨てになったのですか」という叫びが、自分の叫びと重なりました。
さらに、イエスしかいない、献身する、と言った自分が、イエスの十字架を前にしてさっさと逃げた弟子たちと重なりました。以前は、自分は十字架のそばで泣いている女性たちの一人だと思い込んでいましたが、実はそうではありませんでした。自分の命の危機に直面した時、私は自分の命を愛していて、イエスとは、自分の命に直結しない程度の関わりでいたいと思っていたことがわかったのです。
レントの黙想は、重苦しく息が詰まり、痛みを思い出す期間になりました。それでも、一年に一度、自分の罪を見つめることくらい、イエスの十字架の苦しみに比べたら耐えられることだ、と受け取るようになりました。そして、真っ暗な墓の中でイエスのよみがえりのプロセスはどのように進んでいったのだろう、ということにも思いを馳せるようになりました。墓の中の闇と対照的な、目も開けられないほどのまばゆい復活の光を思うようになったのです。