連載 伝わる言葉で伝える福音 第1回「イエスの仏心」
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
私は二世出身の牧師として、長年「キリスト教業界用語」問題にこだわってきた。
イエス・キリストを信じ受け入れ、教会に通うようになると、いつしか教会内で通用する「業界用語」を自然と駆使できるようになっていく。例えば「福音、救い、原罪、永遠の滅び、永遠のいのち、霊的恵み、贖いの代価、十字架の恵み、導き、執り成し、交わり」等である。
この生煮えのような食材(キリスト教業界用語)の栄養価を損なわないまま、口にすれば誰にでもそのおいしさが伝わる「食べやすい食材」へ調理し直すことはできないだろうか? 私は、これこそ日本の福音宣教の重要なカギを握る概念だと確信している。
そう思わされるきっかけは、二十数年前、生まれて初めて教会に「導かれてきた(これも業界用語ですね!)」八十代後半の女性との出会いであった。教会員である娘さんに連れられての来訪であった。私は自分なりに一生懸命、福音を伝えたつもりである。しかし彼女の顔は一向に晴れない。むしろ曇ったままである。
一とおり語り終えた私は、「お母さん、何か聞きたいことはありますか?」と恐る恐る尋ねた。すると彼女はこう質問してきた。
「先生、そのイエスとかいう人を信じたら、私はどうなりますの?」
私は、「イエス様を信じると、罪から解放されて、その結果、人に優しくできるし、穏やかに日々を過ごせるし、毎日感謝して過ごせますよ」と付け加えた。それを聞いた彼女は、その後の私の牧師人生を決定的に変えてしまう一言を発したのである。
「するとこういうことですか? 私がイエス様を信じると、仏心を持つことができるんですね?」
ほ、仏心! 私は思わず「いやいや、仏心ではありません。ここはキリスト教会です。仏教は関係ありません」と言いたくなった。しかし―ここで立ち止まって逡巡した。
(この方は今まで一度も聖書やキリスト教に触れたことがない。ただ単純に、イエス様を信じるなら良い心を持つことができる、と受け止めたのだろう。これを彼女なりに表現したのが「仏心」ではないのか?)
私はこの時、キリスト教業界の則を踏み越えた自分を自覚した。
「そうです、お母さん! イエス様を信じると、罪が赦されて、私たちは仏心を持つことができるんですよ!」
彼女はこの後、キリスト者となった。そして「仏心」をイエス様から与えられたと信じ、その生涯を喜びながら全うしたのである。
私たちが未信者と向き合って「個人伝道」する時、伝え手である私たちは聖書の言葉を用いたり、教会では通じる「キリスト教業界用語」を駆使して、熱心に「福音」を語ろうとする。しかし聞き手の表情は曇ったまま……。そんな空回り状態を体験した方はおられないだろうか。
一方、いざ「キリスト教業界用語」の中身をかみ砕こうとすると、信仰歴の長いキリスト者ほどそれが難しいという現実に直面してしまう。今まで教会内ではその言葉で話が通じていたのだからなおさらである。
私たちは確かに「世から救い出された者」である。だから「世と調子を合わせてはいけない」と語る聖書の言葉を受け止めている。しかし別の箇所では「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」なることを奨励している。
私たちは「キリスト教業界用語」という「象牙の塔」に閉じこもっていては、本当に願う福音宣教の働きを行うことはできない。そこから出て、キリスト教を知らない方のために業界用語を解体することこそ、リアリティある「個人伝道」には必要ではないだろうか?