連載 神への賛美 第1回 「主の祈り」に見る賛美の恵み(1)

向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシック仕込みの幅広い音域を持ち、クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。

 

「天におられる私たちのお父様
お名前が聖なるものとされますように。」
弟子たちが、「祈りを教えてください」とお願いした時、イエス様が教えてくださった祈りの冒頭です。短い言葉に、果てしない意味と力と恵みがあります。
この言葉を一番初めに聞いた弟子たちの耳には、「天」という言葉はどう響いたでしょう。「天」の反対の「地」を見れば、騒乱があり、試練、また誘惑だって溢れています。自分の心を見たらどうでしょう。落ち込んだり、苛立っていたり。どこに希望があるでしょう。
でもイエス様は、まず天を見上げるように教えてくださいました。光に満ちた天、希望そのものであるような天を仰いで、神様を「天のお父様」と呼ぶ。この特別な関係を啓いてくださいました。その大いなる回復から、この祈りが始まるのです。
そして祈りは「御名が聖なるものとされますように」、別訳では「御名が崇められますように」と続きます。私たちは祈りのとおり、お父様を崇め、高らかに賛美し、そしてその御名が聖とされるように生きることができるのです。

では、その「天」における礼拝はどんなものなのでしょう。聖書にはこんな記述があります。
預言者イザヤは、天の神殿におられる神様の姿を見てしまいました。そこでは天使たちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」(イザヤ6・3)と互いに呼び交わして、御座の周りを飛んでいたのです。そう、まさしく神様を「聖」と崇めていたのです。
イザヤは「なんて素晴らしい! こんな素晴らしい主のお姿を見られるなんて、もうサイコーだ!」と叫んだでしょうか。いえ、そうではなかったのですね。残念ながらイザヤの口から出たのは「ああ、私は滅んでしまう」(同15節)。
そう、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と天使たちがたたえるお方は、真に聖なる方。罪だらけの人間は、この方を見ると死ぬとされていました。
しかし、天使が祭壇の上から火バサミで取った燃えさかる炭が、彼を聖めました。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」(同7節)。
イエス様は、この主の祈りを教えるだけではなく、私たちが実際に天のお父様のところに帰れるように、天への道を開いてくださったのです。十字架という死の刑罰を、私たちの身代わりとなって受け、死んでくださいました。そしてよみがえり、天に昇られたのです。私たちはもう、この主と共に、天のところに座る者とされたのです。
今の世相を見てみると、お父さんをあまり大事にしていないかもしれませんね。かく言う私も、父とはさまざまな確執があったのですが、神様がダイナマイトのような力で吹き飛ばしてくださり、父の死に際して「お父さん、愛してるよ、ありがとう!」をありったけ言うことができたのでした。和解は最高です。本当は誰もがお父さん、お母さんと愛し合いたい。ましてや、もっと大きな天のお父様と和解すること、お父様のところに戻れることは、真実な霊の回復そのものなのです。

「天におられる私たちのお父様」、この言葉のもう一つの大きな性質は、「私たち」と、皆でお父様に呼びかけることです。ひとりのお父様を仰ぐ「私たち」は、みんな神様の子どもです。兄弟であり姉妹であり、一つの家族。この大きな家族の回復も、イエス様がしてくださった大いなる御業です。
私たちは今、この祈りそのものの心で、ありったけ主を賛美します。呼びかけます。喜び、涙し、感謝し、たたえます。「お名前が聖なるものとなりますように」と。天使たちが天上で「聖なるかな」とたたえる賛美の言葉を、今、この地上において私たちも賛美できるのです。聖霊の火が私たちの唇にあるのです。
さあ、高らかに賛美しましょう! 天に向かい。うつむき、自分や人の世の暗い闇を見つめてきた目線を変えて、御座におられる主に向かいましょう。神の家族たちと一緒に呼びかけるのです。「天におられる私たちのお父様!」と。
素晴らしい、永遠のいのちと、天における永遠の賛美の中に、私たちは招かれています。