連載 グレーの中を泳ぐ 第十四回 霊的同伴の実例

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

霊的同伴では、自分に起こっていることを同伴者に話し、それを聞いてもらうことを通して新しい視点を得て、自分の中でその出来事を捉え直すという体験をすることがあります。たとえば、ある日の同伴はこんなふうに進んでいきました。

私 がん治療が始まった頃、余命を聞かれたこと、「エンディングノートの作成を手伝うよ」と言われたこと、再発の恐怖を感じたこと、がんになったけれど信仰を強くもって奉仕している他の牧師と比較されたことなどを、フラッシュバックのように思い出します。神のわざが現れるためにこんな恐怖が必要なのか、こんな訓練を与えられなければ神と私との関係は深まらないのか、とも思いました。
恐れと平安、痛みと解放は反対のベクトルにあるのに、絶えず混ざり合うものだと感じました。何でも白黒つけたがる私には、以前だったら受け入れられないことでしたが、今は、どちらのベクトルにも神様はいるから、それも悪くないと思っている自分の変化に驚きました。それでもすぐに悪の力に襲われます。

Nさん(同伴者) 恵子さんの中で、恵子さんを神様に近づけようとする聖霊の力と、神様から引き離そうとする敵の力が拮抗しているように感じます。私たちが神様の御声に耳をすませ、神様の促しに従おうとしていくとき、そうはさせまいと抵抗する敵の力が圧迫してくるのでしょうね。
恐怖心は、神様が恵子さんを訓練するために抱かせているものではなく、敵が恵子さんの心に放つ火矢によるものではないかと思います。サタンは恵子さんに恐怖心を抱かせ、神様が招いておられるところから恵子さんを引き離そうとするけれど、神様は、敵が仕組んだことでさえ、恵子さんが神様の愛に、より深く根ざすことができるようになるための機会に変えてくださるのではないかと思います。
私は若い頃、「霊的戦い」について、たくさん教えられてきました。でも、そのうち、何でもかんでもサタンのせいにしたり、「サタンよ、下がれ!」とわめきつつ祈ったりすることに違和感を覚えるようになり、振り子が逆に振れて、霊的戦いについてあまり考えなくなりました。けれども、近年、霊的同伴の働きをする中で、私たちが神様の御声や聖霊の動きに注意を払おうとするとき、神様の働きではない別の力も確かに私たちに影響を与えようとしている、と気づくようになりました。
サタンは恐れを通して、私たちを神様から引き離そうとします。でも聖霊は、恐れを、私たちが神様に思いを向け、より神様に近づいていくための機会に変えることができます。

私 同伴の最中でもサタンが猛烈に働きかけていたことに気づきました。今日は、最初のほうでしばらく会話がなく、沈黙していましたが、あのとき私は自分が話したことをNさんに無言で責められているのではないかと一瞬思い、今日の同伴はうまくいかないかもしれないから、まだ時間ではないけど、終わらせたほうがいいのではないかと思っていました。
でもこの一年、Nさんは私がどんなに変なことを言っても責めたり、反省を促すようなことを言ったりすることは一度もありませんでしたし、同伴はそうすることが目的ではなく、神の恵みや出来事の気づいていなかった側面に目を向けさせるものだ、ということを思い出し、話を再開しました。
今の流れが、自分では気づかないサタンの力だったのだと、Nさんと話してわかりました。
恐れはすべて悪いもの、自分の弱さの現れ、自分を打ち叩いて戦うべきもの、と思っていましたが、神が先立って戦ってくださり、神の恵みによって恐れから解き放っていただけるのだと思いました。
恐れは、神の恵みに招かれる入口になり得るけれど、サタンも大いに利用するものでもあるのですね。今回は、Nさんを通してこうして気づかせていただきましたが、自分の霊の識別力が高められ、それに気づけるようになり、サタンに引きずられないようになる訓練もまた必要だな、と思いました。

ほんの一部ですが、霊的同伴ではこのようなやりとりを通して気づきを与えられるという、私の場合の例です。