いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第9回 いのちへのまなざし~生きる喜びを共感する~

久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。

 

医療現場で患者さんと向き合うなかで、いのちについて深く考えさせられたり、生きることや死ぬことの意味を問うたりすることがあります。誰かのいのちと向き合うことをとおして、私たちは問われ、互いのいのちは研磨されていくのだろうと私は感じます。日々いのちの現場にいる医療者たちは医療のプロとしての役割を担いつつ、一人の人として葛藤を覚えたり悩んだり、時には無力さを感じたりしながら、患者さんやご家族と向き合っています。そのようなスタッフたちから私は大切なことを教えてもらっています。ある医療者が語ってくれたことばをご紹介したいと思います。
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私は理学療法士として、障がいを持った赤ちゃんから高齢者の方へのリハビリテーションを行っています。リハビリテーションは病気や障がいにより体力が低下した方々への社会復帰を目標にした運動やマッサージ、日常生活動作の練習の提供、家族等への介助方法の指導などをする専門的な業務です。元気な方もいれば、寝たきりで言葉を話せない方など対象は様々です。その中で出会ったAちゃんとの関わりを通じていのちについて感じたことを伝えたいと思います。
Aちゃんは人工呼吸器なしに呼吸することができません。私はこの子にいったい何ができるのか、ご両親の不安な気持ちをどのようにして軽減することができるのかということを考えていました。
関わりの中で一つ気づくことがあって、それは体が硬くならないように体全体をほぐしていると、涙することがあると気づきました。その行為が快なものか不快なものか当初わからなかったのですが、関わっていくうちに、私の中で「抱っこしてほしい」「今日は調子が悪い」「おはよう」などAちゃんが訴えていることを感じるようになってきました。その訴えの理解は言葉で説明することは難しく、霊的な感覚であるように思います。その反応や私の感じたことをご両親に伝えると、大変喜んでおられました。
なぜこのような霊的な感覚を感じることができたのか、振り返ると、医療従事者としての関わりだけでなく、友人の一人として個人的な話を聞いてもらい、自分自身の心を開くことで、Aちゃんも心を開いてくれたのだと思います。
理学療法士としてAちゃんに提供できることは少なく、時には無力感に苛まれることもありましたが、その子ができることを見つけ、それを他の職種の人やご家族と共有することで喜んでもらえることが、理学療法士のやりがいだと感じています。
人生の時間にはそれぞれ長短がありますが、流れる時間は同じであり、その同じ時間の中でAちゃんとともに過ごせた時間は、私にとって大変有意義な時間でした。私が今後関わるであろう障がいのある方々、もしくはその家族、仕事の仲間、自分自身の家族など、関わるすべての人と生きる喜びを共感できる人生にしていきたいと、Aちゃんを通じて学ばせていただきました。
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生きる喜びを共感するということを考えさせられる中で、私は弟子ペテロを見つめたイエスさまのまなざしを想いました。イエスさまが捕らえられ、大祭司のところに連れて来られたのを火に当たりながら見ていたペテロは、人々に言い寄られてイエスさまのことを三度否定します。鶏が鳴いた時、イエスさまは振り向いてペテロを見つめられたと聖書には書かれています(ルカ22・54~62)。ペテロはイエスさまの正面ではなく背後に立っていました。そこには恐怖で動けない彼の弱さや後ろめたい気持ちが表れているように思います。そのペテロの痛みをイエスさまは振り向いて見つめられました。そのイエスさまのまなざしは、ペテロの痛みを自分の痛みとして見つめるまなざしであったのだと私は思います。イエスさまのことばを思い出し、ペテロは激しく泣きました。
いのちと向き合うことは、自分の弱さや恐怖と向き合うことでもあります。時に大きな痛みや後悔を負います。ですが、イエスさまはそのような私たちに目を向けて、痛みを共に負うてくださるのです。イエスさまが痛みを担い、私たちを背負っていてくださる、だから、私たちはいのちの前に頭を垂れて神さまに祈り委ねることができるのではないでしょうか。そして、迷いつつも共にいのちと向き合いたいと願うことが、生きる喜びを分かち合うことなのではないかと思います。